2010年8月21日土曜日

霊訓 上











 著書名 霊訓 上
 著者 ステイントン・モーゼス(著) 近藤 千雄(訳)
 出版社 スピリチュアリズム・サークル「心の道場」
 発表年 1883年

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 著者略歴

 購入日 ネットで見れます
 きっかけ 「神との対話」批判
 目的 スピリチュアリズムを知る
 目標

目次

序論

自動書記について― 文体の特徴― 通信霊について― 通信が来る時の状況― 霊媒による脚色の問題― 霊媒が意志を行使できる限界― インペレーター霊の使命― 著者モーゼスの意図


1節

新しい霊的真理普及の時代― これを阻止せんとする勢力の存在― 神の啓示― その進歩的連続性― 人間による歪曲― 破邪と顕正― 背後霊とは― 地上に戻ってくる霊― 邪霊集団とその働き― 悪とは― 地上時代の性格の存続― 個性の発達― 死後その霊性に相応しい境涯に落着く― 悪魔


2節

真の博愛主義者― 真の哲学者― 永遠の生命― 神― 善と悪との葛藤― 戦死霊、自殺霊、死刑霊の影響― 犯罪人の扱い方の問題点― 集団収容と絞首刑の弊害― 更生を目的とした処罰― 死刑は復讐心を増幅させる― 神の認識の誤り― 慈悲と愛― 新しい霊的福音の必要性


3節

筆記の激しさによる著者の頭痛― その説明― 現行法律の欠陥― 霊的知識の欠如― 地縛霊― 早世した霊の得失― 体験と試練の必要性― “動”の世界と“静”の世界― 宇宙の内的世界の分類と地上生活の位置― 悪の世界への堕落― 極悪霊のたどる運命― イエスの述べた“赦し難き罪”とは


4節

作曲家アーンに関する詳細な記述― 霊の情報入手方法― その実験


5節

霊的能力の種類― インスピレーションを受けるための条件― ドグマと偏見と懐疑と不安が難敵― イエスに見る理想の人間像― 人間に完全は不可能―… 瞑想のための魂の個室を設けよ


6節

ダービーによる悪影響― 祭日の功罪― 通信を可能にする条件と不可能にする条件― 極端な節制の弊害― 中庸こそ大切― 死後の結婚の絆― 進歩の法則と親和力の法則― 通信内容に矛盾の生じる原因


7節

新プラトン主義スーフィズム― 霊的真理の普及を妨げるもの― 似非神学者― 似非科学者― 先入的ドグマによる偏見― 宗教の名に値するもの― 理性こそ最高の指針


8節

著者の信仰上の遍歴― 宗教の二面性― 神とは― 神と人間― 理性なき信仰― 派閥主義― 賞と罰― 神の絶対的公正― 神は哀れむが情けはかけず― 人間としての生活規範― 神と同胞と自己への責務


9節

著者の反論― 宗教的夾雑物― 贖罪説について― 再び著者の反論― 署名に十字架を冠する理由― バイブルは人間的産物― 字句に絶対性はあらず― 神の概念の発達― 啓示の信頼性は霊媒の受容度による― バイブルは誤謬だらけ。故に新しい霊的啓示と衝突するのは当然― 霊団による思想上の指導方法― 十字架の真の意味― キリストの使命と霊団の使命は同一


10節

再び著者による反論― 回答― キリストが受けた反論との比較― 新しい真理は反撃に遭う宿命をもつ― 神学的ドグマの誤りの指摘― 宇宙は不変の摂理に支配される― 真理探求と向上の中に真の幸福がある


11節

霊団による著者への支配の強化― 著者によるキリスト教の弁護― 回答― 正直な疑問は無批判の信仰に勝る― 絶対的証拠にも限界― “果実によって木を知るべし”― 人間的見解は無価値― 宗教は単純素朴なもの― 真理は一個人一宗教の占有物にあらず― アテノドラスからアキリーニに至る真理の系譜― 霊同士の見解の相違は説き方の相違― 霊団による段階的思想操作― インペレーター霊団は神の計画遂行のために派遣された多くの霊団の一つ― 啓示の源は一つ― 神は真理を提供するのみ― その諾否は各自の理性的判断と自由意志に任される― イエス・キリストの位置づけ


12節

著者の苦衷と不信― 回答― 根源的過ちは神と人間との関わりについての誤解― 悪魔― 邪霊は自らが招く


13節

再び著者の反論と苦衷の開陳― 回答― 忍耐と祈りの必要性― 祈りとは― 霊側から観た祈りの効用― インペレーター、著者を叱咤する― 死せる過去より生ける未来に目を向けよ― 新しい真理に対する世間の態度


14節

目に見えざる師を信ずることの困難さ― 知的難問との葛藤― 著者がたどり着いた結論― スピリチュアリズムに関する著者の見解― 回答― “スピリチュアリズムは神の声”― 交霊は科学を超えた法則が支配― 霊媒の管理の不徹底


15節

スピリチュアリズムの宗教性― 絶対的真理は存在せず― “最後の審判”は無し― 罪はそれ自らの中に罰を含み、犯した瞬間より責任を求める― キリスト教的天国地獄観を論駁― 交霊現象に関する誤解を正す― 悪とは― スピリチュアリズムは地球規模の啓示


16節

これまでの霊信の総括― 恐怖を吹き込む教義は魂を萎縮させる― 宗派の別は些細な問題― どの宗教にも真理と誤謬が混在する― 真理を独占する宗教は皆無― キリスト教神学は諸悪の根源― キリストの福音は生命の不滅性の証明― それが宗教の根幹


17節

著者の不満と要望― 拒絶とその理由― これまでの霊訓の復習― 著者に反省を求めるために霊団の一時総引き上げを示唆― 数学的正確さをもつ証拠は提供不可能― キリストの“私と父は一つである”の真意― 著者の旅行先での霊信― 性急な要求は事を損ねる― 猜疑心の及ぼす影響― 著者の忍耐と理性的判断を重ねて要請





 一八七三年に始まって八〇年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。



 今まさに新しき真理の普及のために特別の努力が為されつつある。神の使徒による働きかけである。それが敵対者の大軍による曾てなき抵抗に遭遇している。世界の歴史は常に善と悪との闘争の物語であった。片や神と善、片や無知と悪徳と邪悪――霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪である。そこで、時として――今がまさにその時期の一つであるが――尋常ならぬ努力が払われることがある。神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、知識を広める。目的達成の時も間近い。恐るべきは真理からの逃亡者であり生半可者であり、日和見(ひよりみ)主義者である。かくの如き人種に惑わされてはならぬ。が、神の真理ゆえに迷うことがあってもならぬ。


――解ります。しかし何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう。真剣に求めながらなお見出せぬ者が多いのです。

 切に求める者にして最後に見出せぬ者はおらぬ。その道のりの長く久しき者もあろう。さよう、地上を去り、高き界へ到りてようやく見出す者もあるやも知れぬ。神は全ての者を試される。そして相応(ふさわ)しき者にのみ真理を授けられる。一歩進むにもそれ相当の備えが為されねばならぬ。それが進歩の鉄則である。適性ありての前進である。忍耐の必要なる所以である。


――それは解るのですが、内部の意見の衝突、証拠を納得して貰えないこと、偏見、その他もろもろの要因から来る障害はどうしようもないように思えます。

 そなたにそう思えるというにすぎぬ。一体何故に神の仕事に抵抗せんとするのか。もろもろの障害!? われらが過去において遭遇せる障害に比べれば、そなたたちの障害など物の数でないことをそなたは知らぬ。

 かのローマ帝政の末期――放蕩と肉欲と卑俗と悪徳とに浸り切った地域から聖なるものすべてが恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもしそなたが生を享けておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことであろう。その非情さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれであった。肉欲、ただ肉欲のみであった。天使はその光景を正視できずに逃げ去り、その喘ぎを和らげてやることなど到底及びもつかなかった。実に、あるのはただ不信のみ。否、それよりさらに悪かった。世をあげてわれらを侮蔑し、われらの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んだりの放蕩三昧の日を送るのみであった。まさしく堕落しきった動物同然の生活であった。さほどの悪の巣窟さえ神とその使者は見事に掃き清められしものを、ああ、そなたはわずかな障害を前にして、これを“どうしようもない”と嘆くとは!




――その“新しき啓示”ですが、それは“古き啓示”と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが。

 啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ぬ。ただし、その真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。

 一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。

 時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。が、その時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。

 古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が、矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕さねばならぬ。

 人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や、偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

 神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊なる啓示と思えばよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。

 神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。

 そなたの嘆く意見の衝突も相違も単なる正邪の選り分けの現れにすぎぬ。しかも取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽られている。結束せる悪の勢力の働きかけも予期せねばならぬ。が、足もとにのみ捉われてはならぬ。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことである。






 真実の博愛主義者、全てに先んじて同胞の利益と進歩を慮(おもんぱか)る人こそ真実の人間、真の神の子である。

 なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。

 真の博愛主義者とは時々刻々と神に近づきつゝある者のことである。絶え間なき努力によりて永遠にして不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わう。

 博愛主義者と哲学者、すなわち人類愛に燃える人間と偏見なき道理探求者こそ神の宝――比類なき価値と将来性に満ちた珠玉である。

 前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞としてその温かき心の中に抱き込む。全ての人間を、友としてまた兄弟として愛するのである。思想の如何を問わず、ひたすらにその者の必要とするものを洞察し、それに相応(ふさわ)しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える。これぞ真の博愛主義者である。

 もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいる。己の名声を広めんがために己に同調する者、それに媚(こ)びへつらい施しをする者のみを愛する。かくの如き似非(えせ)博愛主義者はその真実の印である“博愛”を傷つける者である。

 一方哲学者は一切の宗教、いかなる教派のドグマにも媚びず、一切の偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものは潔(いさぎよ)く受け入れる。即ち、かくあるべき――従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく、神的叡智の探求に邁進し、そこに幸せを見出す。彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない。何となれば神の真理は無限だからである。

 生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見出す。言い換えれば神についてのより正しき知識の蒐集である。

 この二者の結合、すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時、そこに完璧なる理想像ができあがる。両者を兼ね備えし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる。



 例えば人間の社会は大衆のための法律と言いつつその実、犯罪人を懲(こ)らしめるための法律でしかない。もとより法律には懲罰的要素もなくてはならぬ。が、同時に更生的要素も持たねばならぬ。

 然るに異常者とみた者をすぐに逮捕し、他の者へ危害を及ぼさぬようにと隔離する。数年前に大規模にそれを行ない、拷問にかけ、精神病棟をぎゅうぎゅう詰めにした。彼らのどこに罪があると言うのか。

 何のことはない。その口にすることが普通一般の常識と異なるというに過ぎぬ。あるいは――古(いにしえ)より狂人とされた者の多くがそうであり、今なおよくあることであるが――単に未熟霊にそそのかされたに過ぎぬのである。

 いつの日かその真相を知って後悔することであろうが、常識の道からはずれることが必ずしも狂える証拠とはかぎらぬ。霊の訓えの道具となることが精神に異常を来したことにはならぬのである。人間の愚行によりて多くの神の使徒が公然とその使命を遂行する自由を奪われ、さらに、われらが精神病棟を溢れさせ、霊媒を発狂させた元凶であるという誤れる認識が行なわれている。盲目にして無知なる為政者がわれら霊とその訓えと関わりをもつ者すべてを精神病者と決めつけたからに他ならぬ。愚かにも人間は霊の世界と関わりをもつことそれ自体を狂気の証と決めつけ、従って霊的真理を口にする者は悉(ことごと)く狂人であり、故に精神病院に隔離せねばならぬと決定した。そして偽りの供述書を作成することによって霊媒に狂人の汚名を着せ、幽閉することに成功すると、今度は、霊媒を狂わせたのは霊であるとの口実のもとに、その罪をわれらに押しつけたのである。



〔ひき続いての対話の中で私は再び善と悪との闘いに言及した。それに対して、と言うよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が書かれた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが十年ないし十二年続いて再び一時的な凪(なぎ)が訪れると語った。予言めいたことを述べたのはこれが最初である。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返し語られたことであるが、その時に綴られたまゝを紹介しておく。〕


 そなたが耳にせるものは、これよりのちも続く永くかつ厳しい闘いのささやき程度に過ぎぬ。善と悪との闘いは時を隔てて繰り返し起きるものである。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されて来たことを知るであろう。時には未熟なる霊が圧倒的支配を勝ち得た時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が大挙して霊界へ送り込まれるためである。彼らは未だ霊界への備えができておらぬ。しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。死せるのちもなお、その雰囲気の中にて悪のかぎりを尽くす。

 霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。そなたらはみずから定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいてあまりに盲目的であり無知である。幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。するとそなたらはすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込める。そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこにたむろし、双方の邪念と怨恨とによって、まさに巣窟と化している。

 何たる無分別! 何たる近視眼! 何たる愚行! その巣窟にわれらが入ろうにも到底入ることを得ぬ。神の使者はただ茫然として立ちすくむのみである。そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団(人間と霊の)を目(ま)のあたりにして悲しみの涙を流す。そなたらが犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。何となればそなたら自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、そなたらは知らぬし、知り得ぬことでもあろう。が、もしも人間が右の如き事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。

 罪人は訓え導いてやらねばならぬ。罰するのはよい。われらの世界でも処罰はする。が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための一種の見せしめであらねばならぬ。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならぬ。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろう。然るにそなたらは罪人を寄せ集め、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまう。その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。かくの如き扱いを受けし者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。即ち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。

 人間は何も知らぬ! 何も知らぬ! 己の為すことがいかに愚かであるか一向に知らぬ。己こそ最大の敵であることを知らぬ。神とわれらと、そしてわれらに協力せる人間を邪魔せんとする敵を利することになっていることを知らぬ。

 知らぬと同様に、愚かさの極みである。邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎぬ者に復讐的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、かくして傷つけられし霊が霊界より復讐に出ることをそなたらは知らぬ。神の優しさと慈悲――堕落せる霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばならぬ。右の如き行為を続けるのは神の存在を皆目知らぬが故である。そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。
何たる見下げ果てたる神! 一時の出来心から罪を犯せる無知なるわが子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは! 作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ! われらには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣なる心の中以外のいずこにも存在せぬ。

 父なる神よ! 願わくは無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身につきて何一つ知らぬこと、御身につきてのこれまでの愚かなる概念を拭い去らぬかぎり真の御姿を知り得ぬことを悟らしめ給え。

 然り。友よ、そなたらが設けたる牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方の全てにおいて、その趣旨がことごとく誤りと無知の上に成り立っている。

 戦争および大量虐殺に至っては尚のこと恐ろしきことである。本来同胞として手を繋ぎ合うべき霊たち――われらは身体にはかまわぬ。一時的に物的原子をまとえる“霊”こそわれらの関心事である――その霊たちの利害の対立をそなたらは戦闘的手段によりて処理せんとする。血に飢えし霊たちは怨念と憤怒を抱きつつ肉体より引き裂かれ、霊界へと送り込まれる。肉体なき霊たちは燃えさかる激情にさらに油を注がれたる如き激しさをもって地上界を席巻し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心を一層駆り立てる。然るにその拠(よ)って来るそもそもの原因は単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かなる野望に類するものであったりする。

 ああ、友よ、人間は何も知らぬ。まだまだ知らねばならぬことばかりである。しかもそれを、これまで犯せる過ちを償うため、苦くかつ辛き体験を通じて知らねばならぬ。人間は何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰に勝(まさ)る叡智なることを知らねばならぬ。かりにもし神がそなたたちが想像せる如く、人間が同胞を処罰する如くに人間を扱うとすれば、そなたたち自らも間違いなくそなたらの想像せる地獄へ堕ちねばならぬ。神につきて、われら神の使者につきて、そして自身(みずから)につきて、そなたたちはまだまだ知らねばならぬ。それを知った時はじめて真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使者の使命達成のために協力することになろう。

 友よ、もしもわれのメッセージの有用性と利益につきて問う者があれば、それは無慈悲と残虐と怨念の産物に代わりて、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げよ。神ヘの崇敬の念と共に、愛と慈悲と憐憫(れんびん)の情をもって全生命を人間のために尽くさんとする霊的存在につきて知らしめんがためであると告げよ

 人間が己の過ちを悟り、神学的教義の他愛なさに目覚め、知性を如何にして己の進歩のために使用するかを学び、与えられたる好機を己の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞と再会せる時に、地上での言動を非難されることのなきよう、常に同胞のために生きることを教えるものであることを告げよ。

 これこそがわれらの使命であることをその者たちに告げるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、己のお気に入りの説にて事足れりと自負するならば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的霊に目を向けるがよい。

 そして彼らに地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを告げるがよい。そして彼ら真理に目覚めぬ者のために祈れ。死して目を覚ませる時、己の惨憺(さんたん)たる光景に絶望することのなきよう祈ってあげるがよい。

 戦争は人間の欲望と野心、怒りと驕(おご)りと復讐心の産物にほかならぬ。然して戦争のあとに残されるものは一体何か。神の美(うる)わしき自然が破壊され踏みにじられる。人間のすばらしき平和な勤勉の産物が無残にも破壊される。到るところが血の海となる。そうして未熟で無知で未浄化の霊魂が肉体から引き離されて洪水の如く霊界へと送られてくる。ああ、何たる愚行! 何たる蛮行! 地上自ら悪を生み、そして常に悲劇に終わる。その愚かさに目覚めぬかぎり人類の進歩は遅々として進まぬであろう。然るに人間はひきも切らず悪のタネを蒔き続け、それがわれらの仕事の障害ともなっている。

 人間の社会制度と国家機構には改めねばならぬことが数多くある。取り入れねばならぬものが数多く存在する。

 例えば人間の社会は大衆のための法律と言いつつその実、犯罪人を懲(こ)らしめるための法律でしかない。もとより法律には懲罰的要素もなくてはならぬ。が、同時に更生的要素も持たねばならぬ。

 然るに異常者とみた者をすぐに逮捕し、他の者へ危害を及ぼさぬようにと隔離する。数年前に大規模にそれを行ない、拷問にかけ、精神病棟をぎゅうぎゅう詰めにした。彼らのどこに罪があると言うのか。何のことはない。その口にすることが普通一般の常識と異なるというに過ぎぬ。あるいは――古(いにしえ)より狂人とされた者の多くがそうであり、今なおよくあることであるが――単に未熟霊にそそのかされたに過ぎぬのである。

 いつの日かその真相を知って後悔することであろうが、常識の道からはずれることが必ずしも狂える証拠とはかぎらぬ。霊の訓えの道具となることが精神に異常を来したことにはならぬのである。人間の愚行によりて多くの神の使徒が公然とその使命を遂行する自由を奪われ、さらに、われらが精神病棟を溢れさせ、霊媒を発狂させた元凶であるという誤れる認識が行なわれている。盲目にして無知なる為政者がわれら霊とその訓えと関わりをもつ者すべてを精神病者と決めつけたからに他ならぬ。愚かにも人間は霊の世界と関わりをもつことそれ自体を狂気の証と決めつけ、従って霊的真理を口にする者は悉(ことごと)く狂人であり、故に精神病院に隔離せねばならぬと決定した。そして偽りの供述書を作成することによって霊媒に狂人の汚名を着せ、幽閉することに成功すると、今度は、霊媒を狂わせたのは霊であるとの口実のもとに、その罪をわれらに押しつけたのである。

 もしこれを無知の産物と言うのでなければ、神への冒涜と言わねばなるまい。われらは神の恵み以外の何ものももたらさぬ。地上の同胞にとって、われらは神の真理の担い手にほかならぬ。

 人間がその罪深き心と卑しき生活によりて同類の邪霊を引き寄せその邪性を倍加すれば、その罪は人間自らが背負わねばならぬ。邪霊たちは人間の蒔いたタネを刈り取っているに過ぎぬ。邪霊を咎める前にまず人間自らがその過ちを知らねばならぬ。魂と身体(からだ)の管理をおろそかにしたために道を間違えたのである。

 これを言い換えれば、神聖なる霊の影響力から遠ざかったという意味において迷っているのである。が、われらはその種の人間には取り合わぬ。彼らはまだしも良い。彼らより遥かに道を踏み外せるのは、道を踏み外せる者と思わずにいる飲んだくれの肉欲集団である。彼らは快感に浸りて己を忘れ、汚れたる肉体の官能を飽くことなく刺戟し、堕落者、不道徳者と交わり、挙句には、いま一度肉体的快楽を求めてうろつきまわる邪霊・悪霊の餌食となって行く。われらの目にとりて、こうした邪心と不純の巣窟ほど恐ろしきものはない。この上なく卑しく、この上なく恐ろしき堕落の巣窟である。言うなれば、人類の文明の汚点であり、知性の恥辱である。


――いま一度肉体的快楽を求めるとはどういう意味ですか。


 こうした地縛の霊たちは、地上時代の肉体的欲望と性向とを多分に残している。それを直接感識する器官はすでにないが、欲求だけは消えぬ。

 飲んだくれは相変わらず酒と性の味が忘れられぬ。否、むしろ一段と強く求める。いくら耽っても満足を得ることができぬためである。魂の中に欲望の炎が燃えさかる。その欲望に駆られて、かつての通いつめた悪徳の巣窟へと引きつけられ、そこで快楽に耽る人間に取り憑き、その者の堕落を一層深めていく。かくして再び地上生活を味わい、同時にその人間が深みにはまり行くのを見て、悪魔の如く、してやったりと、ほくそえむ。

 悪徳が引きつがれ、罪悪と悲しみを産み続ける。魂を奪われたその哀れなる者は目に見えぬ悪の使者に駆りたてられ、泥沼に深く深く沈んで行く。家では妻と子が飢えと悲しみに言葉もなく打ち暮れている。そのまわりを、打つべき手を全て失いたる守護霊(1)が、為すすべもなく徘徊する。

 こうした例を持ち出すのは、地縛霊が酒色に耽る人間を虜(とりこ)にして、今一度地上的快楽を味わっている現実を知らしめんがためである。一度酒色に溺れし者の更生が困難であるのは、かくの如くに悪徳の悪循環が行われているためである。その悪循環を断ち切る方法は人類全体の道徳的意識の高揚と物的生活の向上に俟(ま)つほかはない。

 それにはまず、より垢(あか)抜けした真実の霊的知識の普及が必要である。つまり幅広き真の意味での高等教育が要請されるのである。

 ああ、なんと悲しきことであることか! が、有難きことに、こうした霊は稀にしか存在せず、よくよくの事情にて善と聖へ背を向けた者に限られる。これがイエスが弟子たちに語れる“死に到る罪”である。聖書に言う“聖霊に対する罪(3)である。すなわち聖なる神の使徒の声に背を向け、聖と純と愛の生活を棄てて悪徳と不純の生活を選びし罪である。

 動物性が霊性を駆逐し、身体までも蝕(むしば)み、情欲を刺激し、最も下賤なる感情をさらに汚し、人間性を最下等の獣性にまで引き降ろしてしまう罪である。

 そこまで至れる者はもはや神性は消え失せ、野獣性が異常に助長され、強化され、発達し、すべてを支配し、霊の光を消してしまい、向上心の息の根を止める。悪徳の念のみが燃えさかり、魂を向上の道から遠くへ遠くへと引きずり下ろし、ついに動物性を病的なものにする。もはや霊の声も届かぬ。魂は一路奈落の底へ深く深く沈み行き、ついに底知れぬ暗闇の中へ消滅する。
 これぞ聖書に言うところの、聖霊を汚す“赦し難き罪(4)である。赦し難きとは神が赦さぬというのではない。自らその道を選びたるが故である。その道が性分に合い、いささかの悔い改めの念も感じぬためである。

 罰は常に罪そのものが生み出す。それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。法を犯したことによる不可避の結果なのである。

 その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を培(つちか)うことにもなる。

 これが、誤れる方向より戻し、過ちを償わせ、その結果として魂に新たなる希望を育んで行く、その第一歩と言えよう。彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し伸べることも出来る。悪の影響より完全に隔離される。やがて悔恨と無念の情が湧いてくる。性格は優しく温順となり、善の影響に感じ易くなる。かつての頑(かたくな)で冷酷で反発的態度は消え失せ、魂が進化しはじめる。過去の罪の償いも終わり、良心の苛責もすっかり和らいでいる。こうした過程はいつの時代にも同じである。

 さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。が、神はそうはさせぬ。そうしてわれらはその神の命を受けし者なのである。

5節
〔その翌日、私は現在地上にはびこっていると言われる邪霊の影響について長々と議論した。私はその働きの個人への影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つか挙げた。またそうした力が広がりつつあるので、誠実で叡智に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。さらに霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは人間自身の心がけ一つに掛かっていると述べた。そこで私は、ではどういう心がけが最も望ましいかと尋ねた。〕


 霊的現象に多くの種類があることはそなたの知る通りであるが、霊力の行使にもさまざまな方法がある。ある者は身体的特質の故に直接身体そのものが霊力の支配を受ける。身体的機能が目に見える最も単純な形での霊力の証に適しているのである。この種の霊媒は知的な支配は受けぬ。よって彼らを通じて届けられる情報は取るに足らぬもの、あるいは愚にもつかぬものさえあり、信頼性に欠ける。彼らはあくまで客観的現象を演出することの出来る霊力を証明する手段として使用されるのである。
 要するに彼らは初歩的現象の演出のための道具であると認識してよいが、だからと言ってその現象が他の種類の霊能力を通じて現れる霊能と比較して重要性が劣るわけではない。霊力の存在を信じさせるための基盤を築く上で不可欠なのである。

 一方、情愛に満ちた優しき性格ゆえに選ばれる者もいる。彼らは物的現象の道具ではない。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらある。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しき魂は天使の監督のもとにますます洗練され向上していく。そうするうちに徐々に天使から霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは霊視能力により死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもある。霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもある。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂う。実に彼らは地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によりて培われた休息と平和の境涯へと旅立つ。

 これとは別に、知的能力に優れたるが故に、幅広き知識と奥深き真理の通路として訓練される者もいる。高級なる霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意する。その働きかけの方法は実に複雑多岐を極める。所期の目的達成のために仕組む出来事への配慮にはそなたの想像も及ばぬ手段を行使するのである。

 われらにとりての最大の難事は進化せる高級霊からの通信を受け取るに相応しき霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならぬ。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ぬのが道理だからである。次に、愚かなる地上的偏見に捉(とら)われぬ者でなければならぬ。若き時代の誤れる思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間に受け入れられぬものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばならぬ。

 まだある。独断主義(ドグマ)より解放されねばならぬ。この世的思想から抜け出せぬようではならぬ。神学的独断主義と派閥主義と偏狭なる教義より解放されねばならぬ。己の無知に気づかぬ一知半解の弊に陥ってはならぬ。

 常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。

 また、われらの仕事は頑固なる敵対心からの自己主張、または高慢なるでしゃばりと利己心によりて阻害されることがあってはならぬ。

 さような霊媒ではわれらは仕事らしき仕事を為し得ぬし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことに向けねばならぬ仕末となる。われらが求むるのは有能にして真摯(しんし)なる、そして飽くなき真理探究心に燃えた無欲の心の持ち主である。

 そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解できよう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれらは見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。

 まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。こうすることによって独断的偏見より超脱させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物ではないとの悟りへの地ならしを行なう。

 そうして魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げて行くことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われらの所期の目標に調和させて行く。


 ここに至って多くの者が脱落していく。そしてわれらも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能なること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭えざるものであること、それ故、時の流れに任せるほかなく、われらにとって用なきものであることを悟って諦めるのである。

 また真理への完全なる忠実性と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われらの教化によって着実に培われていくものである。われらは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれらが神より許されたる範囲の行為と霊的訓えを忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは多くの霊媒に見られる、苛立(いらだ)てる落ち着きなき不満と正反対である。

 この段階にてまた多くの者が脱落していく。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われる。古き神学の説く神は自分の如き人間の破滅を今か今かと見守っているかに思い、悪魔が自分の如き人間を罠にかけんと油断なく見張っていると思い込む。確かに古き信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しき信仰基盤は敷かれておらぬ。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われらにとりて用なきものとなっていく。

 それでも尚われらは人間のあらゆる利己心を払拭しなければならぬ。われらの仕事には私心の出しゃばりは許されぬ。さもなくば、われらには何も為し得ぬ。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。小知を働かせてはならぬ。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならぬ。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ぬ。

 いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にせる予言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。

 そなたらの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。とくにイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

 この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。

 ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物――我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人々であった。一途(ず)なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

 われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。

 が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。情愛にあふれ寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とせよ。さらに報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心を心とせよ。

 神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措(お)いて他に成就し得る者はおらぬ。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らぬであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。

――でもそれほどの人物は極めて少ないでしょう。


 少ない。少ない。それもようやく芽を出した程度のものに過ぎぬ。われらはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てる。われは完全を求めているのではない。

 誠実さと一途な向上心、捉われなき受容性に富む精神、清純にして善良なる心の持ち主である。

 忍耐強く待つことである。性急は恐ろしき障害となる。所詮そなたの手の届かぬことに対する過度の用心と不安を捨てよ。われらに任せるがよい。今は外部との接触を避け、忍耐強くわれらの述べたることを吟味するがよい。

――都会の喧噪から隔絶した生活のほうがあなたたちの影響を受け易いのでしょう。


〔ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(1)と署名された。〕


 騒々しき世界は常に霊的なるものを拒絶する。

 人間は物的なるもの、すなわち目に見え手に触れ貯(たくわ)え得るものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ち受けていることを知らぬ。あまりに地上的になりすぎ、われらの働きかけに無感覚である。あまりに地臭が強すぎ、近づくことすら出来ぬ。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているが故に、死後にも価値の残るものに心を配る余裕をもたぬ。

 それのみに留まらぬ。心が常時そうしたものに捉われ、心静かに瞑想する余裕をもたぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱している。霊的雰囲気に力が見られぬ。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱している。これではわれらもほとんど近づくことすら出来ぬのである。

 さらに、啀(いが)み合いの情念と不平不満、妬(ねた)み合いと口論のために、その場が不快な重苦しき雰囲気に包まれている。悉(ことごと)くわれらにとって障害となるものばかりである。無数の悪徳の巣、忌(い)まわしき誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われし人間のあふれる大都会には邪霊の大軍がうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして虎視眈々(こしたんたん)とその機を窺っている。多くの者がその餌食となって悲劇への道をたどり、それだけわれらの悲しみを増し、手を煩わすことにもなるのである。

 瞑想の生活こそわれらとの交信にとりて最も相応しきものである。もとより行為の生活が無用というのではない。両者の適度な取り合わせこそ望ましい。煩わしき気苦労もなく、過労による体力の消耗もなき時こそ最も瞑想に入り易い。しかし魂の奥底に、それを求める欲求がなければならぬ。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間の誘惑も、霊界の存在の認識と霊との交わりを妨げることは有り得ぬ。が、やはり環境が清浄にして平穏な時の方がわれらの存在を知らしめることが容易である。

7節

 新プラトン主義哲学(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。
新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。

 忘我の状態で神性に背くものを全て排除し、ひたすら神との合一をはかるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。その時教わったもの、とくに右の学者の説教についてはその後なるほどと思わせるものがある。

 (1)
Neoplatonism 三世紀に始まったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中心にしてこれに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家が本書の五節にプルーデンスの名で出ているプロティノス Plotinus である。
(2)
Souffism


8節
〔翌日、前回の通信に関連した長い入神談話があったあと、インペレーターと名のる同じ霊がいつものレクターと名のる筆記者を使って、再び通信を送って来た。それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。当時の私の立場から観ればその教説は、論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら少なくとも高教会派的(1)と呼びたいところである。そこで私はかなりの時間をかけてキリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。
こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がある。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、国教会の中でもアングリカン
(2)と呼ばれる一派も、それまでに私が到達した結論に最も近い教義として受け入れていた。その強い信仰は自動書記通信によってある程度は改められていたが、本格的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派の一人をもって任じていた。
が、この頃からある強烈な霊的高揚を覚えるようになった。これに関してはこれから度々言及することになると思うが、その高揚された霊的状態の中で私は一人の威厳に満ちた霊の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついには霊的再生とも言うべき思想的転換を惹き起こさせられるに至った。〕


 そなたはわれらの教説をキリスト教の伝統的教説と相容れぬものとして反駁した。それに関して今少し述べるとしよう。

 そもそも魂の健全なる在り方を示す立場にある宗教は二つの側面をもつ。一つは神へ向かう側面であり、今一つは同胞へ向けての側面である。

 では、われらの説く神とは如何なる神か。

 われらは怒りと嫉妬に燃える暴君の如き神に代わりて愛の神を説く。名のみの愛ではない。行為と真理においても愛であり、働きにおいても愛を措いて他の何ものでもない。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨む。

 われらの説く神は一片のおべっかも要らぬ。法を犯せる者を意地悪く懲らしめたり、罪の償いの代理人を要求したりする誤れる神の観念を拒否する。況や天国のどこかに鎮座し、選ばれし者によるお世辞を聞き、地獄に落ち光と希望から永遠に隔絶されし霊の悶え苦しむさまを見ることを楽しみとする神など、絶対に説かぬ。

 われらの教義にはそのような擬人的神の観念の入る余地はない。その働きによってのみ知り得るわれらの神は、完全にして至純至聖であり、愛であり、残忍性や暴君性等の人間的悪徳とは無縁である。

 罪はそれ自らの中にトゲを含むが故に、人間の過ちを慈しみの目で眺め、且つその痛みを不変不易の摂理に則(のっと)ったあらゆる手段を講じて和らげんとする。

 光と愛の根源たる神!

 秩序ある存在に不可欠の法則に則って顕現せる神!

 恐怖の対象でなく、敬慕の対象である神!

 その神についてのわれらの理解は到底そなたらには理解し得ぬところであり、想像すら出来ぬであろう。

 しかし、神の姿を見た者は一人もおらぬ。覗き趣味的好奇心と度を超せる神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を曖昧模糊(あいまいもこ)なるものとする形而上的詭弁も、またわれらは認めるわけには参らぬ。われらは真理を覗き見するが如き態度は取らぬ。すでにそなたに述べた神の概念ですら(神学より)雄大にして高潔であり、かつ崇高である。それより更に深き概念は、告げるべき時期の到来を待とう。そなたも待つがよい。

 次に、神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によりて特に選ばれし数少なき寵愛者――そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

 盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される――生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる――わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

 またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。

 真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。

 そなたらは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。

 われらが敬意を払う人間とは、たとえ信ずる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。

 人間が喜ぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われらは関知せぬ。キリスト教の神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を超越せる神秘への覗き趣味には、われらは思わず後ずさりさせられる。われらの説く神学は極めて単純であり、理性的理解のいくものに限られる。単なる空想には価値を認めぬ。派閥主義にも興味はない。徒(いたず)らに怨恨と悪意と敵意と意地悪の感情を煽るのみだからである。

 われらは宗教なるものを、われらにとりても人間にとりても、より単純な形で関わるものとして説く。修行場としての地上生活の中に置かれた人間――われらと同じく永遠不滅の霊であるが――は果たすべき単純なる義務が与えられ、それを果たすことによりて一層高度な進歩的仕事への準備を整える。その間、不変の摂理によって支配される。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守(じゅんしゅ)すれば進歩と充足感を与えてくれる。

 同時に人間は、曾て地上生活を送れる霊の指導を受ける。その霊たちは人間を指導監督すべき任務を帯びている。

 ただし、その指導に従うか否かは人間の自由意志に任せられる。人間には善意の判断を下す基準が先天的に具わっており、その判断に忠実に従い、迷うことさえなければ、必ずや真理の道へと導いてくれるはずのものである。

 善悪の判断を誤り背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみである。進歩が阻止され、喜びの代りに惨(みじ)めさを味わう。罪悪そのものが罰するのである。正しき行為の選択には背後霊の指示もあるが、本来は霊的本能によりて知ることが出来るものである。為すべきことを為していれば進歩と幸福が訪れる。魂が成長し完成へ向けてより新しく、より充実せる視野が開け、喜びと安らぎをもたらす。
 

 地上生活は生命の旅路の一過程にすぎぬ。しかし、その間の行為と結果は死後にもなお影響を残す。故意に犯せる罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばならぬ。

 一方善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界にてその清き霊を先導し高級霊の指導教化を受け易くする。

 生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし、“お情け”は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。

 徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎(おろそ)かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によりて神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。

 われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。神と同胞と己自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。

 父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務

 同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務

 身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務

 知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務

 より深き真理を求める(霊的開発)……自己への義務

 良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)……自己への義務

 祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)……自己への義務

 以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。

 いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によりても、いかなる民族によりても独占されるものではない。神の啓示は一度たりとも“終わった”ことはないのである。

 その昔シナイ山にて啓示を垂れた如く(3)、今なお神は啓示を送り続けておられる。人間の理解力に応じてより進歩的啓示を送ることを神は決してお止めにならぬ。
また、これも今のそなたには得心しかねることであろうが、全ての啓示は人間を通路としてもたらされる。故に多かれ少なかれ、人間的誤謬によって脚色されることを免れないのである。

 いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。故に新たなる啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致せぬからとて、それは必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのである。

 いずれもそれなりに真実なのである。ただ、その適用の対象を異にするのみなのである。正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。

 そして、あくまでそなたの心が得心し、進歩をもたらせてくれると信ずるものに縋(すが)るがよい。いずれ時が来れば、われらの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになろう。われらは根気よくその時節を待とう。そして同時に、そなたと共に、神が人種の隔てなく真理を求むる者すべてに、より高くより進歩的なる知識と、より豊かにして充実せる真理への洞察力を授け給わらんことを祈るものである。
神の御恵みの多からんことを!

〔注〕
(1)
High Church 英国国教会内の一派で、教会という組織の権威・支配・儀式等を重んじる。
(2)
Anglican カトリックとプロテスタントの両要素をもちながら、どちらにも偏らない要素を備えた一派で、総体的には高教会派的。
(3)
モーセの十戒。

10節
〔不服だったので私は書かれた通信を時間を掛けてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立する内容のものだったが、それが書かれている間じゅう、私は心を昂揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。
その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教義はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら反キリスト的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。更にまた、そのような何となく立派そうな見解――当時の私にはそう映った――は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といったことだった。すると次のような回答が来た――〕


 友よ、良き質問をしてくれたことを嬉しく思う。

 われらが如何なる権能を有する者であるかについてはすでに述べた。われらは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せばいずれそれが認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待つ。それまでに着実な準備を為さねばならぬし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われらの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟は出来ている。それは、われらにとりて格別の驚きではないことを表明しておく。

 考えてもみるがよい! より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力は付きものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて事足れりとし、全ては試され証明されたと絶叫する。一方、新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものなること以外は何一つ知らぬのである。

 イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち――その訓えはその時代に即応したそれなりの意義があったとは言え、時代とともにより高き、より霊性ある宗教にとって代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細を穿ちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。

 魂なき身体、然り! 生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に、彼らの神の冒涜者――不遜にも彼らは人類の宗教の救世主をそう呼んだのである――はモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者であると絶叫した。律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難した。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らであった。

 イエスが神の名誉を奪う者でないことはそなたのよく知るところである。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦らせんがために人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。

 親へのうわべだけの義務――愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務――を説く佗しき律法に代わって、イエスは愛の心より湧き出でる子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。うわべのみの慣例主義に代わって衷心よりの施しを説いた。いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったろうか。むしろ前者のほうが、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如く、後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったか。にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを旧(ふる)き宗教を覆(くつがえ)さんと企(たくら)む不敬者として十字架にかけたのであった。

 その新しき福音を喜ばず、かつ、それを受け入れる用意もなき世に敢然と立ち向かったイエスの弟子たちへしつこく向けられし非難もやはり、新しき教義をもって旧き信仰を覆さんとしているというものであった。そうして何とかして彼らを告発すべき恐ろしき罪状を見出さんと策を弄した。が“四面楚歌”の新しき信仰に対する如何なる非難をも甘受するその弟子たちの説く訓えに何一つ不埒(ふらち)千万なるものを見出し得なかった。彼らは確かに非合法の集団であった。が、ユダヤ教信仰と“時の権力”には忠実に従っていた故に、告発せんとして見守る者たちも、その謂れを見出すことが出来なかった。彼らは次々と新しき無垢の信者を集めていった。みな愛の心に満ちた優しきイエスの後継者たる彼らの訓えには、何一つ不埒千万なるものはなかった。そなたも今まさに、何とかしてわれらの訓えと使命の信頼性を失墜させるものばかりを好んで信じようとしているが……

 しかし、いつの時代もそうだったのではなかろうか。新しきものが非難され、信頼を得られぬのは、宗教において、科学において、有限なる人間の為すことの全てにおいて、いつの時代にも変わらぬ物語である。それが人間的知性の特性の一つなのである。すなわち、見慣れたものが気に入られ、目新しく見慣れぬものが懐疑と不信の目で眺められるのである。

 それ故われらはスピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たり、劈頭(へきとう)より懐疑の目をもって迎えられることに些(いささ)かの驚きも感じぬ。いずれは全ての者がその訓えの美しさと神聖さを認める日が到来するであろう。

 われらの説くところが人間の言説と衝突することは、別に驚くには当たらぬ。否むしろ、遠き過去において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた訓えと矛盾せぬことの方がおかしい。バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの訓えと融合し得ぬものが見出されることを敢えて指摘せぬわけにはいかぬのである。この点についてはすでに述べたので繰り返す必要はあるまい。

 バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られぬわけでもないが、細部において不合理きわまる自家撞着を少なからず含んでいる。その上、霊媒を通過する際に紛れ込める人間的誤謬もまた少なしとせぬ。その中より真相を読み取るにはバイブル全体の流れを読むほかはない。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、それ自体の価値はあるにせよ、信仰の対象としての価値は些かも認められぬ。そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令の如く考えること自体が愚かと言うべきである。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾する。

 申すまでもなく、そなたたちが神の声と呼ぶ書を筆記者たちが記録した時代においては、イエスは神なりとの信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられた。またそう信じた者たちは同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議なる方法にて雲間にその姿を現す――それもその世紀の人類が滅びる前である、と信じた。両者とも間違いであった。そうしてその時以来少なくとも一八〇〇年が過ぎ去ったが、イエスは再臨しておらぬ。このことに関連して今少し述べておく必要があろう。

 われらがそなたに理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は自分自身に与えられた“光”にて判断せねばならぬということである。

 説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉(とら)え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。われら自身、およびわれらの教説を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのという観点からではなく、そなたの真に求むるもの、そなたと神とのつながり、そしてそなたの魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。

 つまるところ一体われらは何を説かんとしているか。その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。そなたの魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。

 そなたが正統派教会より教え込まれた教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中の選ばれし少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果つることなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだという。その恩寵にあずからぬ他の人類は全て天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難き苦しみを永遠に受け続けるという。

 

この至福にあずかれぬ哀れな者たちは、ある者は信仰なきが故であり、ある者は堕落せる環境のせいであり、ある者は恐ろしき煩悩の誘惑に負け、罪を犯せるが故である。さらにある者は多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗し得ざりしためである。また何を為すべきかを知らぬ者もいた。もし知っていれば喜んで努力したであろうに。救われたくば是非信ぜねばならぬと説かれた教義が、知性的に受け入れ得なかった者もいる。さきに述べた如く、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意せざりし者もいる。その者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れなる者たちを、祝福されし者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかなる満足を得るという。その実彼らの多くは地上にて悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白せるが故に救われたというに過ぎぬ。

 肉欲と怠惰と、あらゆる法に違反せる生活も、信仰の告白という一つの行為によりて全てが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきた。いかに粗野にして肉欲に狂える無法者も、死の床にてイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒涜していたはずの神のもとへ一気に招かれるという。不純にして卑しき堕落者が、清純にして気高き聖人と共に完全無垢なる神のもとにかしづけるとは!

 指摘すれば枚挙に暇なしであるが、われらの説くところと比較対照するには以上の指摘で十分であろう。われらは決してそのような神――理性が身震いし、父性的本能が嫌悪の念を催す神の概念は説かぬ。同じく愛の神とはいえ、さような偏れる愛の神をわれらは知らぬ。それは人間の発明せる神であり、われらは知らぬ。さような人間的偶像は野蛮なる精神の哀れなる戯言(たわごと)に過ぎぬことを指摘せずにはいられぬ。至純至聖なる神を滑稽化するその不敬きわまる無知と愚かさに、そなたもわれらと共に驚きを感じて欲しく思うのである。友よ、そのような神の観念を抱くようでは、人間はよくよく霊性が堕落していたものと推察される。今、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われらの説く福音を切望している者に相違あるまい。

 われらが知るところの神、そしてそなたに確信をもって説ける神こそ、真の意味での愛の神――その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及びて尽きることを知らぬ。いかなる者に対しても分け隔てせず、全てに断固たる公正をもって臨む。その神とそなたたちとの間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の愛の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。この天使の働きにより神の慈悲は決して途切れることなく人類に及ぶ。これこそわれらが説く神――摂理によって顕現し天使を通じて作用するところの神である。

 では、人間についてわれらは何を説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懴悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしき教義への信仰の告白行為一つにて、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしき体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での不滅の魂なのか。

 否、否。そなたたちはより高き霊的生活への鍛練を得るべく、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上に在るに過ぎぬ。その霊の世界にありては地上生活にて自ら蒔いた種子が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取る。そなたたちを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという児戯に類する夢幻(ゆめまぼろし)の如き世界ではなく、より価値ある存在を目差し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。

 その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。

 善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。

 真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪(むさぼ)る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探求心を失う者もおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。

 地獄――それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛(さいな)まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ――たどり来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。

 罪に対してはそれ相当の罰のあることはもとよりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

 
 幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に適い宗教心より発する行ないを為す者すべてが手にすることが出来るものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てた霊との区別はない。


 霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命はそなたら肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを遵守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せる者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できる。


 神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍(ふえん)して説く時機も到来しよう。以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張――すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖であり、イエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで十分であろう。


 それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じてより崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。知り得ぬことは知り得ぬこととして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。


 もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信ずるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ、神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。


 われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命をたどることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。
(†インペレーター)


コメント

☆哲学者の心と博愛主義者の心を持った者のみが真理を広めることが出来る。

真実を見極める理性と、異なる考えや敵対する人をも受け入れる感性が必要。


☆祈り

 国民としての義務を怠り数々の不正を見過ごし、無反省に日々を送ってしまったことを悔い改めます。闇を照らす光となり、不正を不正と言える勇気を持ちます。宗教法人、軍需産業、軍隊、警察、裁判所、官僚組織、政治家、教育者を監査せず、行動をチェックしなかったため、しつけを受けずに育った不良のようになってしまったことを反省し、きちんと糺すことを誓います。


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