2010年9月26日日曜日

日本という国

  

 著書名 日本という国
 著者 小熊英二
 出版社 理論社
 発表年 2006年

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 著者略歴

小熊 英二(おぐま えいじ、1962年9月6日 - )は、日本の社会学者。専攻は歴史社会学・相関社会科学(社会学・歴史学・国際関係論)。博士 (学術)。音楽(ギター)活動も行い、オリジナルアルバムも出している。

 東京都昭島市出身。東京都立立川高等学校を経て、名古屋大学理学部物理学科を中退し、東京大学へ入学。
 その後、1987年に東京大学農学部を卒業して岩波書店に入社(1996年まで在籍)。当初は雑誌『世界』編集部に在籍したが、営業部へ異動になった後に休職して、東京大学大学院総合文化研究科(国際社会科学専攻)に在学し、1995年に修士課程を1998年に博士課程を修了した。1997年に慶應義塾大学総合政策学部専任講師となり、2000年に助教授(准教授)に昇格。2007年より教授。

 父である小熊謙二はシベリア抑留を受け、1948年8月に日本へ帰国。その後、元日本兵の朝鮮系中国人が日本国政府を相手取ってシベリア抑留の戦後補償を求める訴訟の共同原告となっている[1]。




 購入日 2010年9月25日 小平図書館


 きっかけ サイト:20世紀文学大全集

 目的


 目標

目次


まえがき


 「日本と言う国」。この本の読者は、ほとんどがこの「日本という国」に住んでいる人(日本国籍ではない人もふくめて)だと思う。


 この国のこと、そのしくみや歴史を知り、いまの状態がどうやってできてきたかを理解する。そういうことは、めんどうくさいけど、必要なことだ。


 なんといっても、私たちはこの国に生きていて、この国が進む方向によって、自分の運命も左右されかねないのだから。


第一部 明治の日本のはじまり

 1.なんで学校に行かなくちゃいけないの

 
  なぜ「学問のすすめ」?


  国を強くするために勉強させる


 2.「侵略される国」から「侵略する国」へ


  「東洋」と「西洋」


  「東洋」を脱して「西洋の国」の仲間入り


 3.学歴社会ができるまで


  江戸時代の教育


  親が学校を焼き討ちにする


  学歴社会の成立


  「国に尽くさせる」ための教育


第二部 戦後日本の道のりと現代


 4.戦争がもたらした惨禍

  
  日本が戦争で受けた傷

 
  アジア諸国の被害


 5.占領改革と憲法


  アメリカの占領政策

  
  憲法は「押しつけ」だったか


  「国の誇り」だった第九条


 6.アメリカの〈家来〉になった日本


  アメリカの方針転換


  サンフランシスコ講和条約


  「独立国」にはなったけれど・・・・・


   複雑なアメリカへの感情


   戦後賠償のあり方


 7.これからの日本


   冷戦の終わりと戦後補償要求


   靖国神社の問題


   アメリカの自衛隊海外派遣要求の高まり

   
   世界の潮流に逆行する自衛隊


   在日米軍はなぜ減らない


   「おかしい」日本のナショナリズム


   今後の「日本という国」





出版社/著者からの内容紹介

 ぼくらの住んでいるこの国は……これからどうすればいいんだろう? 近代日本のはじまりから学歴社会の成立、戦後のアメリカやアジアとの関係、そして憲法改正から自衛隊の海外派遣まで、いまの日本を考えるうえで欠かせない基礎知識を、ひとつながりの見取り図としてやさしく提示する。

この国に生きるすべての人の、必読の書!



尾崎行雄
「愕堂回顧録」


 金銭的にも清廉潔白で有名であった。

もっとも戸川猪佐武によると、
犬養毅に「そりゃ確かに君は清廉潔白で献金をもらわんかもしらんが、その代わり、我々に借金をするじゃないか。そしてその金を返さないじゃないか。借りた金を返さんのも清廉潔白のうちか。」
とやりこめられて、さすがにグーの音も出なかったという。


 戸川によると、尾崎は「原敬は金が欲しい議員には金をやって、ポストが欲しい議員にはポストをまわして、それで子分を増やしたのだ。」と言っていたということで、

田中角栄シンパとして有名だった戸川は「そんなことを言っているから尾崎は政界で孤立したのだ。」と書いている。


・愕堂回顧録

 福沢諭吉「おミエーさんは、だれに読ませるつもりで、著述なんかするのかい?」


 尾崎行雄「大方の識者に見せるため」


 福沢諭吉「馬鹿者め!猿に見せるつもりで書け!おれなどはいつも、猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれで丁度いいのだ。」


・学歴社会の成立

 1895年(明治28年)日清戦争の賠償金(日本の国家財政4年分以上の金額)で教育基金がつくられ、1990年(明治33年)小学校で授業料が取られなくなった。

 当時の給料 現在の価値に換算して

  中等学校の教師:月給150万から300万

  大学の法学部を卒業した人が校長として:月給600万

  高等師範学校卒業の教頭:月給400万

  県令さん(県知事に相当、当時は政府から任命される高級官僚):月給2500万


 ☆今の高級官僚の給与はいくらなのだろう?


  内閣総理大臣と最高裁長官:5141万

  衆参議長:4857万

  国務大臣:3753万

  事務次官:3011万

  国会議員:2896万

http://nensyu-labo.com/2nd_koumu.htm より


・「貧にして智ある者」が増えてしまう恐れ


第二部


あたらしい憲法のはなし」

1947年8月 文部省



コメント


1995年沖縄で女子小学生が米兵に集団暴行を受けた

 インド人「そのと日本の右翼はどうしたのか?」
  「なにもしなかったけど」
 インド人「それはおかいいじゃないか。日本にはサムライの伝統があるといっている国だと聞くが、そういう国辱ものの事件が起きたときに、日本刀をもって米軍基地に斬り込みに行くような右翼は、日本にはいないのか。そこまでしないとしても、ナショナリストならそういうときに、米軍基地へ抗議運動の先頭に立つべきじゃないか」

・1972年 日中共同声明 周恩来首相 日本への賠償請求をとりやめた

 「毛沢東主席は昔から一握りの軍国主義者と広範な日本人民とを区別してきた」

・p160 1945年9月 マッカーサーと天皇の会見

 天皇「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありました」
 真珠湾攻撃は「登場が私をだましたのだ」とマッカーサーに述べた。

☆本当にこの発言があったのだろうか? 以前、天皇はこの戦争の責任はすべて自分にある、と言ったと聞いたことがあるのだが。

 天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
 「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」。
  1946年1月、昭和天皇は人間宣言を行った。その年の2月から9年かけて、日本各地を巡幸し、国民と直接言葉を交わした。1977年夏、那須御用邸で記者会見を行い、初めて戦後の思い出を語った。しかし、マッカーサーの初会見で、何を話したかについては、言えないと答えた。「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と。
 1989年1月、昭和天皇が亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の内容について語ることはなかった。
作成者所見:
 1945年9月27日、マッカーサーと昭和天皇は2人だけで会見した。その会見内容は、当時も今も公式に発表されていない。マッカーサーの回想記によれば、昭和天皇は、政治、軍事の全責任は私にあり、私自身を連合国に委ねると申し出たと言う。 これに、マッカーサーは感激し、日本最上の紳士と評価して、その後、一層好意ある態度を示したようだ。昭和天皇とマッカーサーの人物像の一端を示す、意義ある話題だった。これが、今の象徴天皇の発端となった。
 一方、マッカーサーは、会見写真の新聞公開を指示し、日本国民に敗戦を実感させる才覚も示した。
 いずれにしても、終戦直後、占領軍と日本政府の間で、天皇自身の扱いとマッカーサー会見をめぐるかけひきが、真剣かつ必死の覚悟で行われていたことは、あまり知られていないだけに、歴史的にも興味深いものがある。


リンク

ウィキペディア


小熊英二研究室


・1968 著書:全共闘運動を詳細に記述・分析した大著『1968』においても「いままでにない全共闘史」としての評価もある一方で、当事者・関係者からの「事実誤認」「運動の矮小化」との批判も多数あびている。


・『小説トリッパー』2001年冬季号「同時多発テロと戦後日本ナショナリズム」(島田雅彦との対談)



・慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス


 第2回(4月17日)


 この回では、「学校」について講義する。読み書きソロバンといった「実学」を自発的に学ぶための場だった江戸時代の寺小屋にたいして、近代国家の学校の特徴の一つは、「生活の役に立たないことを、強制的に教える」という点にある。近代国家が、いったい何のために多額の予算を投じてまで、学校をつくったのかを考える。


 第5回(5月8日)


 この回では、「ナショナリズム」について講義する。明治初期においては、薩摩人と会津人は自分たちが「同じ日本人」とは思っていなかった。天皇への民衆の関心はうすく、幕末の内戦では日の丸は旧幕軍側の旗だった。そうした人間集団が、いかなる方法で天皇と日の丸をいただく「日本人」として形成されていったかを考え直す。


 第7回(5月22日)


 この回では、「性と家族」について講義する。性に関する観念は近代以前と近代以後では大きく異なるが、一般に誤解されているのとちがい、「封建的」と呼ばれる貞操感は明治以後に流布したものである。身分制度に基づく社会から国民国家に変貌する過程で、人々の性意識や家族形態がどのように変わったかを検証する。



 第11回(6月19日)


 この回では、「戦後体制」について講義する。現在の日本のあり方は、第二次世界大戦直後の占領改革や新憲法の制定、そして一九五〇年前後の国際情勢などによって決定された部分が大きい。そうしたなかで、国内の改革やアメリカとの関係がどのように構築されていき、現在にまで影響を及ぼしているかを考える。




「革命と社会運動」 

0.このテーマを学習する意義

・革命や社会運動のイメージ(「異常事態」「非日常的」)

・革命や社会運動の存在しない社会は「正常」なのか?

→誰一人として反対者のいない社会は「異常」ではないのだろうか?



1.革命の定義

・大衆が参加する社会運動

・暴力や脅迫を伴う

・前任者を上回る統治能力の発揮



2.社会運動の定義

・集合的行為を通して、共通の利害関心や目標を達成しようとする試み

→「集合的行為」については(3)を参照のこと



2'社会運動のタイプ(アバール)

-----社会レベルでの変革を目指す

・転換型運動(暴力による大変革を狙う)→イスラム原理主義者による革命運動

・改革型運動(社会体制の一部の変更を狙う)→妊娠中絶反対団体

-----個人レベルでの変革を目指す

・救済型運動(人々の堕落からの救出を狙う)→宗教運動

・部分改変型運動(個人の中の部分的な変化を狙う)→アルコール依存症者更正協会



3.集合的行為の条件(ティリー)

・「組織化」「十分な資源」「参加者共通の目標」「時期」→資源動員論



4.社会の変化と社会運動

・社会科学の目標=安定的な構造の発見

・経済秩序の不安定化→階級闘争→政治、社会システムの打倒(マルクス)

・「労働者こそが未来社会を展望し、実現してゆく」

→経済的視点から階級的運動として社会運動を見た

・国家の定めた憲法によって個人と共同体を結合させる(ヘーゲル)



・構造自体が安定性を失い、変動を繰り返す現代→社会科学の前提の揺らぎ

・社会的分業が多様な部分システムを生み出す(アダム・スミス「国冨論)

→様々な変化に対する社会システム対応への疑問「いかにして社会秩序は可能か」

・全体社会には機能があり、システムの各部分はそれに貢献する(パーソンズ)

・部分システム自体に問題を解決する能力がある(ルーマン)

→複雑性を緩和する「自己言及性」と問題を解決する「偶然性克服的学習プロセス」

・現代では、既存の規則で社会の全構成員を統合することはできない(ハーバマス)

・可変的アイデンティティにより、社会システム維持が行われていると考えた,

→誰にとっても絶対的に真なるものは見つかるのか?(超現実的理念、理想)

→システムが自己維持のために外部の問題を解決する手段として社会運動を見た



・階級闘争の形態次第で、単なる社会の再生産ではなく、社会の生産が可能(トゥレーヌ)

・「支配」「防衛」ではなく「指導」「異議申し立て」

→中間階級は社会運動の中心であり、システム維持の中核でもある



・システムが内部化不可能な外部性があるのではないか(メルッチ)

・全ての価値は平等ではなく、競争を勝ち抜いた価値が匿名化し、社会を支配する

→「奴隷主・領主・資本家」と「教育・医療技術・法律・言語」

・匿名化した権力の所在を明らかにすることが新しい社会運動の目的

・新しい社会運動の役割

→制度的変動の発端となる

→運動の展開を通して新しいエリートを形成し、社会に送り込む

→社会的秩序の機能に変化を及ぼす



5.現代日本と社会運動

・総力戦時代における統合が、闘争をシステム内の機能に変質させた(大河内一男)

・紛争や排除を、国民共同体の運命的一体性の下で統合した

・非合理的で専制的なファシズム型(ドイツ、イタリア、日本)

・合理的で民主的なニューディール型(アメリカ、イギリス、フランス)

→戦争遂行の機能性の一点にしぼって社会を作った点では変わりはない

→階級社会からシステム社会への移行

→国家官僚制支配・専門家を頂点とする中央集権体制の問題



「青森県六ヶ所村の事例」

・戦後、食糧増産のために緊急開拓募集(粟、稗、馬鈴薯の生産)

・農業→養豚→酪農(54年)→ビート(62年)→水田→開発(69年)

・「むつ小川原湖・臨海コンビナート計画」(69年)

・ニクソンショック(71年)、第4次中東戦争(73年)、イラン革命(79年)で頓挫

・「石油備蓄基地」(79年)(現地雇用者50人)

・「核燃料サイクル基地」(84年)

→土地を売ってしまったら、もう何をされても仕方がないのか?

・生活水準上昇→人々の期待水準上昇→実際の生活条件の裏切り→反発(ディヴィス)

・行政府の力不足→平和的運動→当局側の武力行使→運動の暴動化(ティリー)



6.まとめ

・これまでの社会運動は、システム内での権利の獲得を目指すものだった

・しかし、システム内統合の進展が新たな問題を発生させた

→年金、医療保険、産業公害、原発、土地闘争、いじめ、登校・出社拒否等

・自分たちがこうしたジレンマに直面していることを、絶えず自覚することが大切

・システムの単なる拡大ではなく、システムを変化させることが、社会運動の役割

→「帰化」から「共生」へ

・問題意識の希薄さや無批判な人間の多さは、国家支配の浸透の高さの証拠ではないだろうか



参考図書

山之内靖「システム社会の現代的位相」(岩波書店)

鎌田慧「六ヶ所村の記録(上・下)」(岩波書店)

井上俊、上野千鶴子、大沢真幸他編「現代社会学の理論と方法」(岩波書店)

似田貝香門、梶田孝道、福岡安則編「リーディングス日本の社会学 10 社会運動」<(東京大学出版会)



福岡安則「在日韓国・朝鮮人」(中公新書)




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