2010年8月20日金曜日

霊の書――スピリチュアリズムの真髄「思想編」











 著書名 霊の書――スピリチュアリズムの真髄「思想編」
 著者 アラン・カルデック 近藤 千雄(訳)
 出版社 スピリチュアリズム・サークル「心の道場」
 発表年 1996年

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 著者略歴


アラン・カルデックの生涯と業績

 カルデックは本名をイポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユといい、一八〇四年にフランスのリヨンで生まれている。アラン・カルデックというペンネームは、いくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んで合成して授けたものである。

 家系は中世のいわゆるブルジョワ階級で、法官や弁護士が多く輩出している。初等教育はリヨンで修めたが、向学心に燃えてスイスの有名な教育改革家ペスタロッチのもとで科学と医学を学んだ。

 帰国して二十八歳の時に女性教師と結婚、二人で新しい教育原理に基づいた私塾を開設する。が、偶発的な不祥事が重なって、塾を閉鎖せざるを得なくなり、リヨンを離れ、幾多の困難と経済的窮乏の中で辛酸をなめる。が、その間にあっても多くの教育書や道徳書をドイツ語に翻訳している。

 その後名誉を回復して多くの学会の会員となり、一八三一年にはフランス北部の都市アラスの王立アカデミーから賞を授かっている。一八三五年から数年間、妻とともに自宅で私塾を開き、無料で物理学、天文学、解剖学などを教えている。

 スピリチュアリズムとの係わり合いは、一八五四年に知人に誘われて交霊会に出席したことに始まる。そこでは催眠術によってトランス状態に入ったセリーナ・ジェイフェットという女性霊媒を通して複数の霊からの通信が届けられていた。

 すでにその通信の中にも“進化のための転生”の教義が出ていて、一八五六年にはそれがThe Spirits'Bookのタイトルで書物にまとめられていた。が、その内容にはまだ一貫性ないし統一性がなかった。それが本格的な思想体系をもつに至るのは、カルデックがビクトーリャン・サルドゥーという霊能者が主催するサークルに紹介されて、そこで届けられた通信の中で、カルデックが本格的な編纂を委託されてからだった。それが同じタイトルで一八五七年に出版され、大反響を呼んだ。

 このように、カルデックは霊界通信によってスピリチュアリズムに入り、当初は物理的心霊現象を軽視していた。さらに、スピリチュアリズム史上もっとも多彩な現象を見せたD・D・ホームと会った時に、ホームが個人的には再生(転生)説を信じないと言ったことで、ますます物理現象を嫌うようになった。

 その後カルデックも物理現象の重要性に目覚める。「霊媒の書」がその証と言えるが、フランスでの心霊現象の研究は、カルデックの現象嫌いで二十年ばかり遅れたと言われている。

 一八六九年に心臓病で死去。六十五歳。遺体はペール・ラシェーズ墓地にあり、今なお献花する人が絶えない。

 業績は多方面にわたり、多くの学術論文を残しているが、著書としてはThe Spirits'Book(本書)、The Mediums'Book(「霊媒の書」)の他にHeaven and Hell(天国と地獄)、The Four Gospels(四つの福音書)など、スピリチュアリズム関係のものが多い。


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 きっかけ 「スピリチュアル入門」三大霊訓
 目的 霊訓を知る
 目標 キーワード 考え方を知る

目次

* アラン・カルデックの生涯と業績
* 編者まえがき
* カルデックへの、霊団からの激励のメッセージ

 疑り深き人間、悪意に満ちた者たちがバラ撒くトゲや石ころに惑わされてはならぬ。確信にしがみつくことである。その確信こそが我々の援助を確かなものにし、その援助を得てはじめて目的が達成されるのである。

 忘れてはならぬ。善霊は謙虚さと無私無欲の態度で神に奉仕する者にのみ援助の手を差し延べる。霊的なことを世俗的栄達の足掛かりにせんとする者は無視し、高慢と野心に燃える者からは手を引く。高慢と野心は人間と神との間に張りめぐらされる障壁である。それは天界の光線を見えなくする。光の見えぬ者に神は仕事を授けぬということである。

第1部 根源

* 1章 神とは
* 2章 宇宙を構成する一般的要素
* 3章 創造
* 4章 生命素

第2部 霊の世界

* 1章 霊とは
* 2章 霊の物質界への降誕
* 3章 霊界への帰還
* 4章 再生
* 5章 霊としての生活
* 6章 物質界への再誕
* 7章 霊の解放
* 8章 霊の物質界への関与
* 9章 霊の仕事と使命
* 10章 生命の四つの形態

第3部 摂理と法則

* 1章 自然法則
* 2章 祈りの法則
* 3章 仕事の法則
* 4章 生殖の法則
* 5章 自己保存の法則
* 6章 破壊の法則
* 7章 社会生活の法則
* 8章 進歩の法則
* 9章 平等の法則
* 10章 自由の法則
* 11章 公正・愛・寛容の法則
* 12章 完全なる人格

第4部 希望と慰め

* 1章 地上的喜びと悲しみ
* 2章 死後の喜びと悲しみ

* 訳者あとがき





1章 神とは
〈神と無限〉

――神とは何でしょうか。

「神とは至高の知性――全存在の第一原理です」

――無限というものをどう理解すればよいでしょうか。

「始まりも終わりもないもの、計り知れないもの、知り尽くし得ないもの、それが無限です」

――神は無限なる存在であるという言い方は正しいでしょうか。

「完全な定義とは言えません。人間の言語の貧困さゆえに、人間的知性を超越したものは定義できません」
〈神の実在の証拠〉

――神が存在することの証拠として、どういうものが挙げられるでしょうか。

「地上の科学的研究の全分野における大原則、すなわち“原因のない結果は存在しない”、これです。何でもよろしい、人間の手になるもの以外のものについて、その原因を探ってみられることです。理性がその問いに答えてくれるでしょう」


――神の実在を人類共通の資質である直観力で信じるという事実は何を物語っているのでしょうか。

「まさに神が実在するということ、そのことです。なんとなれば、もしも実在の基盤がないとしたら、人間の精神はその直観力をどこから得るのでしょうか。その直観力の存在という事実から引き出される結論が“原因のない結果は存在しない”という大原則です」

――神の実在を直観する能力は教育と学識から生まれるのでしょうか。

「もしそうだとしたら原始人がそなえている直観力はどうなりますか」

――物体の形成の第一原因は物質の本質的特性にあるのでしょうか。

「仮にそうだとしたら、その特性を生み出した原因はどうなりますか。いかなる物にもそれに先立つ第一原因がなくてはなりません」

――造化の始源を気まぐれな物質の結合、つまりは偶然の産物であるとする説はいかがでしょうか。

「これまた愚かな説です。良識をそなえた者で偶然を知的動因とする者が果たしているでしょうか。その上、そもそも偶然とは何なのでしょう? そういうものは存在しません」

――万物の第一原因が至高の知性、つまり他のいかなる知性をも超越した無限の知性であるとする根拠は何でしょうか。

「地上には“職人の腕はその業を見れば分かる”という諺があります。辺りをごらんになり、その業から至高の知性を推察なさることです」



――神は物的宇宙とは別個の存在でしょうか、それとも、ある一派が主張するように、宇宙の全エネルギーと知性の総合体でしょうか。

「もしも後者だとすると、神が神でなくなります。なぜなら、それは結果であって原因ではないことになるからです。神は究極の原因であって、原因と結果の双方ではあり得ません。

神は実在します。そのことに疑いの余地はありません。そこが究極の最重要ポイントです。そこから先へ理屈を進めてはいけません。出口のない迷路へと入り込んでしまいます。そういう論理の遊戯は何の益にもなりません。さも偉くなったような自己満足を増幅するのみで、その実、何も知らないままです。

組織的教義というものをかなぐり捨てることです。考えるべきことなら身の回りにいくらでもあるはずです。まず自分自身のことから始めることです。自分の不完全なところを反省し、それを是正することです。その方が、知り得ようはずもないことを知ろうとするよりも、遥かに賢明です」

――自然界の全ての物体、全ての存在、天体の全てが神の一部であり、その総合体が神であるとする、いわゆる汎神論はどう理解すべきでしょうか。

「人間は、所詮は神になり得ないので、せめてその一部ででもありたいと思うのでしょう」



2章 宇宙を構成する一般的要素



――宇宙空間は無辺でしょうか、それとも限りがあるのでしょうか。

「無辺です。もしもどこかに境界があるとしたら、その境界の向こうは一体どうなっているのでしょう? この命題は常に人間の理性を困惑させますが、それでも、少なくとも“それではおかしい”ということくらいは理性が認めるはずです。無限の観念はどの角度から捉えてもそうなります。人間の置かれている条件下では絶対に理解不可能な命題です」


――宇宙のどこかに絶対的真空というものが存在するのでしょうか。

「いえ、真空というものは存在しません。人間から見て真空と思えるところにも、五感その他いかなる機器でも捕らえられない状態の“もの”が存在しています」



3章 創造

――物的宇宙は創造の産物でしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。

「もちろん宇宙がみずからをこしらえるはずはありません。もしも神と同じく永遠の過去からの存在であるとしたら、それは神の業(わざ)ではないことになります」

――どのようにして創造されたのでしょうか。

「有名な表現を借りれば“神のご意志によって”です。神が“光よあれ”と言われた。すると光が生まれた。この“創世記”の言葉以外に、全能の神のあの雄大な働きをうまく表現したものはありません」


3章 創造
〈天体の形成〉
――物的宇宙は創造の産物でしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。

「もちろん宇宙がみずからをこしらえるはずはありません。もしも神と同じく永遠の過去からの存在であるとしたら、それは神の業(わざ)ではないことになります」

――どのようにして創造されたのでしょうか。

「有名な表現を借りれば“神のご意志によって”です。神が“光よあれ”と言われた。すると光が生まれた。この“創世記”の言葉以外に、全能の神のあの雄大な働きをうまく表現したものはありません」

――天体が形成されていく過程を教えていただけませんか。

「人間の理解力の範囲内でこの命題に答えるとすれば、空間にまき散らされた物質が凝縮して天体となった、と表現するしかありません」

――彗星は、天文学で推測されている通り、その物質の凝縮の始まり、つまり形成途上の天体なのでしょうか。

「その通りです。ただし、彗星にまつわる不吉な影響を信じるのは愚かです。すべての天体には、ある種の現象の発生にそれぞれの役割分担があります」

――完成された天体が消滅し、宇宙のチリとなって再び天体として形成されるということはありませんか。

「あります。神は、天体上の生き物を新しく作り変えるように、天体そのものも新しく作り変えます」

――天体、たとえばこの地球が形成されるのに要した時間は分かるでしょうか。

「それは我々にも分かりません。創造主のみの知るところです。いかにも知っているかのごとき態度で長々と数字を並べたりするのは愚か者のすることです」

〈生命体の発生〉
――地球上の生物はいつ頃から生息するようになったのでしょうか。

「天地初発(あめつちはじめ)の時は全てが混乱の状態で、あらゆる原素が秩序もなく混じり合っていました。それが次第に落ちつくべき状態に落ちつき、その後、地球の発達段階に応じて、それに適合した生物が出現して行きました」

――その最初の生物はどこから来たのでしょうか。

「どこからというのではなく、地球そのものに“胚”の状態で含まれていて、発生に都合のよい時期の到来を待っておりました。地球の初期の活動がようやく休止すると、有機的原素が結合して地上に生息するあらゆる生物の胚を形成しました。そして各々の種に生気を賦与する適切な時期の到来まで、その胚はさなぎや種子と同じように、不活性の状態で潜伏していました。やがてその時期が到来して発生し、繁殖して行きました」

――その有機的原素は地球が形成される以前はどこに存在していたのでしょうか。

「言うなれば流動体的状態で空間や霊界、あるいは他の天体に存在し、新しい天体での新たな生命活動を開始すべく、地球の造成を待っておりました」

――今でも自然発生しているものがあるのでしょうか。

「あります。ですが、潜在的には胚の状態で以前から存在しているのです。その例なら身のまわりに幾らでもあります。例えば人間や動物の体には無数の寄生虫が胚の状態で存在していて、生命がなくなると同時に活動を開始して腐敗させ、悪臭を放ちます。人間の一人一人が、言うなれば“眠れる微生物の世界”を内部に含んでいるのです」


〈人類の発生〉
――ヒトの種も有機的原素の一つとして地球に含まれていたのでしょうか。

「そうです。そして創造主の定めた時期に発生したのです。“人間は地のチリから造られた”という表現はそこから来ています」

――そのヒトの発生、および地上の他の全ての生物の発生の時期は確認できるのでしょうか。

「できません。あれこれと数字を並べる霊がいますが、何の根拠もありません」

――人類の胚が有機的原素の中に含まれていてそれが自然発生したとなると、今でも(生殖作用によってでなく)自然発生的にヒトの種が誕生してもよさそうに思えるのですが……

「生命の起原のことは我々にも秘密にされております。ただ断言できることは、最初の人類が発生した時に、すでにその内部に、その後の生殖活動によって繁殖していくために必要な要素を全て所有していたということです。他の全ての生物についても同じことが言えます」

――最初の人間は一人だったのでしょうか。

「違います。アダムは最初の人間でもなく、唯一の人間でもありません」

――アダムが生きていた時代を特定できますか。

「大体“創世記”にある通りです。キリストより四〇〇〇年ほど前です」



――太陽から遥か遠く離れた天体は光も熱も乏しく、太陽が恒星(星)の大きさにしか見えないのではないでしょうか。

「あなたは光と熱の源は太陽しかないとでも思っていらっしゃるのですか。また、ある天体上では電気の方が地上より遥かに重要な役割を果たしている事実をご存じですか。そういう世界でも地球と同じように眼球を使って物を見ているとでも思っていらっしゃるのですか」




4章 生命素
〈有機物と無機物〉

――有機物と無機物とではどこが違うのでしょうか。

「物質でできている点は双方とも同じです。が、有機物においてはその物質が活性化されています」

――その活性化の原因は何でしょうか。

「生命素との一体化です」

――その生命素は何か特殊な作用因子の中に存在するのでしょうか、それとも組織をもつ物体の一要素にすぎないのでしょうか。つまり、それは原因なのか結果なのかということです。

「両方です。生命というのは物質へのある因子の働きかけによって生じた結果です。しかしこの因子も、物質がなければ生命を生み出すことはできませんし、物質もこの因子の働きかけなしには活性化されません。生命素はそれを受け止めて一体化するものに生命を賦与するということです」

――これまで私は霊と物質が宇宙の二大主要構成要素であると思っておりました。この生命素は第三の要素なのでしょうか。

「宇宙を構成する不可欠の要素の一つであることは論をまちません。しかし、その源は普遍的物質の変化にあります。その目的に即して変化したものです。人間にとっては酸素や水素と同じく原素ですが、究極の要素ではありません。人間に知られている原素は全て、究極の原素のように思えても実質は基本的流動体の変化したものです」



――有機体の身体と生命素は死後どうなるのでしょうか。

「身体は分解して新しい物体の構成要素として使用されます。生命素は普遍的流動体の海の中へ帰ります」



――知的能力の発達とともに本能が退化すると考えてよいでしょうか。

「それは違います。本能は本能として存在しつづけます。人間がそれを軽視しているだけです。本能も理性と同じように正しい方向へ導いてくれることがあります。その導きはまず間違いなく感得できるものです。時には理性的判断よりも確かなことがあります。決して脱線することはありません」

――なぜ理性的判断が必ずしも頼りにならないのでしょうか。

「間違った教育、自惚れ、私利私欲によって歪められさえしなければ理性は正しい判断を下します。本能は論理を超えて直覚的に判断を下します。理性は常に選択の余地を残し、人間に自由意志を与えます」




第2部

1章 霊とは
〈霊の起源と本性〉

――霊とは何でしょうか。

「霊とは“創造物の中の知的存在”と定義できます。宇宙の顕幽両界に生息する知的存在で、物質界の物的諸形態と対照をなしています」

編者注――ここに言う霊とは個性をそなえた個的存在としての霊のことで、普遍的要素としての霊ではない。

――霊は神とは別個の存在でしょうか、それとも神の一部ないしは放射物で、その意味で“神の子”なのでしょうか。

「霊は神の作品です。機械が製作者の作品であるのと同じです。その機械は製作者のものですが、製作者そのものではありません。あなた方が素敵な物をこしらえた時、“これは我が子のようなものです”という表現をします。神との関係も同じです。その意味において我々は全て神の子です。神の造り給うたものだからです」


――霊は非物質的存在であるという表現は正しいでしょうか。

「地上に比較すべきものもなく、言語で表現することもできないものを、どうして定義づけられましょう? 見たこともないものが定義できますか。“非物質的”というのは適切ではありません。“固定的形態がない”という表現の方がまだ少しは真実に近いでしょう。霊も創造されたものである以上は実体のある何ものかであるはずです。言わば生命のエキスです。が、それは人間の理解力の範囲内では表現できない状態で存在しており、あまりの霊妙さゆえに、人間の五感では感得できません」



――宇宙の秩序の点からみて、そちらとこちらの、どっちが主要なのでしょうか。

「霊の世界です。他の何よりも先に存在しており、物的なものが全て消滅した後にも存在し続けます」

――霊の世界は、物的世界が存在しようが消滅しようが、その本質には変わりないのでしょうか。

「変わりません。二つの世界はそれぞれに独立した存在です。それでいて、なおかつ、互いに絶え間なく関係し合っております。反応し合うのです」



――霊は宇宙空間にあって一定の枠に囲まれた範囲を占めているのでしょうか。

「霊はどこにでも存在します。無辺の宇宙に無数の霊が充満しております。気がつかないでしょうが、あなた方の周りに絶え間なく存在して、あなた方の行動を観察し、また働きかけております。霊は大自然のエネルギーの一種であり、神が定めた計画の推進のための道具なのです。しかし、霊だからといってどこへでも行けるわけではありません。霊性の低い者には“禁制”となっている地域があります」


〈半物質的流動体(ペリスピリット)〉
――霊には外部を被うものはないのでしょうか。何らかの“もの”で包まれているのでしょうか。

「強いて地上の譬えで言えば水蒸気のようなもので包まれていますが、我々自身にとってはしっかりとした外被です。しっかりとしていても大気中を何の抵抗もなく動けますし、宇宙空間を神速自在に移動できます」

――そのペリスピリットはどこから摂取するのでしょうか。

「所属する天体の普遍的流動体から取り寄せます。各天体によってペリスピリットの質が異なります。それゆえ天体を移動する時は、衣服を着更えるようにペリスピリットを取り替えます」



――善性の高い霊として創造される者と邪悪性の強い霊として創造される者とがいるのでしょうか。

「神は全ての霊を無垢と無知の状態で創造されています。言い変えれば、何も知らないということです。その一人一人に神は使命を持たせてあります。その達成のための努力の中で啓発され、真理を知ることによって徐々に完全に近づき、つまりは神ご自身に近づくように配剤されています。

霊にとって完全とは永遠不変の無垢の喜悦の状態です。神によって課せられた試練をくぐり抜けることによって叡知を身につけていくのですが、問題はその試練への対処の仕方です。素直に受け入れ、そこに目論(もくろ)まれたものを速やかに理解していく者がいる一方、不平だらだらで対処し、その意義を悟らず、いつまでも完全と至福の境涯から遠く離れたままの者もいます。自業自得です」


――まだ自我意識が芽生えていない原初において、どうやって善と悪とを選択する自由が得られるのでしょうか。

「自由意志というのは自我意識の発達にともなって獲得されていくものです。もしも自分の意志とは別個の原因にそそのかされて善悪の選択が為されるとしたら、その霊には自由意志はないことになります。その選択を決定づける要因はその霊の内部にあるのではなくて外部にある――つまり自由意志で選んで従った外部の影響力にあります。人類の堕落と原罪という有名な比喩に秘められているのは、この自由意志のことです。誘惑に負ける者もいれば、屈せずに耐え抜く者もいます」



――外部の影響というのはどこから来るのでしょうか。

「未浄化霊です。とりこにして支配しようとする者たちで、自分たちの誘惑に負けていくのを見るのが愉快なのです。比喩で“サタン”として描かれているのは、その誘惑のことです」




――神はなぜ霊が間違った道へ迷い込むのを許すのでしょうか。

「各自に選択の自由を与えているところにこそ神の叡知があるのです。成就した時の功績もその霊自身のものとなるからです」


――いわゆる“悪魔”というのは存在するのでしょうか。

「もしも悪魔が存在するとすれば、それも神が創造したものということになります。ですが、邪悪と残忍の中に永遠に生きるものを神が創造するなどということが考えられますか。もしも悪魔と呼ぶに相応しいものが存在するとすれば、それは地球および地球程度の低級界にのみ存在する偽善者のことです。正義の神の代理人のごとき口を利きつつ、その本性は残忍で執念深く、神の名において忌まわしい行為を犯しつつ、それが神へのお追従のつもりでいるのです」


2章 霊の物質界への降誕

〈降誕の目的〉
――霊が物質界へ誕生してくる目的は何でしょうか。

「それは、完全性を成就するための手段として神が課した必要性の一つです。ある者にとっては罪の償いであり、ある者にとっては使命である場合もあります。完全性を成就するためには物的身体に宿ってのありとあらゆる体験を重ねる必要があります。個霊としての存在価値を発揮させるのは、浄化のための辛苦の体験です。

降誕にはもう一つの目的があります。すなわち造化の仕事に携わるに相応しい力を付けることです。その目的をもって、派遣された天体の物的環境に調和した物的身体を授かります。それを手段として、神によって割り当てられた各自の仕事を成就することができます。かくして一方で各自の霊性を磨きつつ、その世界の福祉のための役割をも果たすようになっているのです」



――個霊としての存在を得た当初から摂理にかなった道を歩んできた者にとっても必須なのでしょうか。

「全ての霊は無垢と無知の状態で創造されています。そして物的生活における苦闘と辛苦から教訓を得るために物質界へ降誕するのです。公正なる神は、ある者だけに苦難も努力も必要としないラクな人生を与えるようなことはしません。そんな人生では結局は何の価値もありません」


〈魂〉
――魂(ソウル)とは何でしょうか。

「物的身体に宿っている霊(スピリット)のことです」

――物的身体に宿る前の魂は何だったのでしょうか。

「霊(スピリット)です」

――すると魂も霊も同一物ということでしょうか。

「そうです。魂も霊です。物的身体と結合する前の魂は見えざる世界で生活する知的存在で、それが浄化と啓発を得るために一時的に肉体に宿るということです」

――人間にはその魂と肉体のほかにまだ何かあるのでしょうか。

「その魂と肉体とを結びつけるものがあります」

――その結びつけるものというのはどういう性質をしているのでしょうか。

「半物質体、つまり魂と肉体との中間的性質をしたものです。異質の両者を結びつけるために必要なものです。霊が物質に働きかけ、物質が霊に働きかけるのは、この半物質体を通してです」

――魂は生命体(肉体)とは別個の存在なのでしょうか。

「繰り返し申し上げている通り、肉体は魂の媒体です」



――国魂(くにたま)とはどういうものでしょうか。

「個霊が産み出される、生命と知性の普遍的要素です。問題は、その用語を使用する人が意味を正しく理解していないことです。魂という用語はとても曖昧で、各自が勝手な想像を加えて解釈しています。地球全体の指導霊的存在、言わば神の大軍のような存在で、人類を正しく導くことを役目としている霊の集団としている者もいます」


〈唯物思想〉
――解剖学者や生理学者、その他、一般的に自然科学に携わる人は唯物思想に陥りがちなのはなぜでしょうか。

「生理学者は、当然、何もかも五感を基準にしてものを考えます。科学者は全てを知り尽くしたと自惚れ、それまでの知識で理解できないものは、その存在自体を認めようとしません。科学そのものが人間を生意気にしてしまい、大自然で人間に知られていないものはないかに思い込んでいます」



3章 霊界への帰還
〈死後の魂〉

――死の瞬間、魂はどうなるのでしょうか。

「再び霊に戻ります。つまり霊の世界へ帰るわけです。ホンの少しの間だけ留守にしていたのです」

――その魂は死後も個性をそなえているのでしょうか。

「もちろんです。個性は決して失われません。もし個性を失ったら魂はどうなりますか」

――物的身体がないのに、なぜ個的存在としての意識が残っているのでしょうか。

「その霊特有の流動体(ダブル)が残っています。その天体の大気中から摂取したものです。それに、それまでの物的生活での魂の特徴が全て刻み込まれています。あなたのおっしゃるペリスピリットです」

――魂はそれ以外には地上生活から何も持っていかないのですか。

「地上生活の記憶と、より良い世界への憧れのみです。その記憶には地上生活をどう生きたかによって、楽しさか辛さのどちらかがいっぱい詰まっています」



――魂が肉体から分離する時は苦痛を伴いますか。

「苦痛はありません。死の瞬間よりも、むしろ死に至るまでの人生の方が遥かに苦痛を伴います。死に際して魂自身は肉体に生じている変化を意識しないものです。それどころか、言うなれば“国外追放の刑期”を終える時がいよいよ近づいたことを自覚して、魂自身は嬉しさでわくわくしていることがよくあります」



――霊的真理を知っているということは死後の目覚めに影響がありますか。

「大いにあります。これから置かれる自分の新しい環境についてあらかじめ理解ができていることになるからです。しかし、やはり何よりも大切なのは実直な日常生活と道義への忠実さです」




4章 再生
〈再生の必要性〉

――物質界での生活で完全性を達成できなかった魂は、その後、浄化のための試練をどのような方法で行うのでしょうか。

「新たな生活での試練を体験することによって行います」

――その新たな生活をどう生かすのでしょうか。霊として何らかの変身を遂げるのでしょうか。

「浄化するにはもちろん変身が伴います。しかしそれには物的生活での試練が必要です」

――となると魂は多くの物的生活を体験するということでしょうか。

「その通りです。あなた方も私も皆、それぞれに何回かの物的生活の経験があります」



――再生の目的は何でしょうか。

「罪障消滅、人類の進歩・向上です。これなくしてどこに神の公正がありましょう」



――再生説の哲学的根拠は何でしょうか。

「神の公正、そして新たな真理の啓示です。前にも述べたことですが、我が子がいかなる過ちを犯そうと、愛情ある父親は、いつでも帰ってくるのを扉を開けて待つものです。そういう我が子に過ちの償いをする機会を与えずに、永遠に悦びを奪い続けることが公正でないことくらい、少し理性を働かせれば分かることではないでしょうか。人間は全て神の子ではなかったでしょうか。不公正、容赦ない憎悪、無慈悲な刑罰が横行しているのは、利己主義のはびこる人間界だけです」





――前回よりも発達程度の低い天体へ再生することもありますか。

「あります。進化を促進する意味も含めて一つの使命を持たされる場合があります。そういう場合は使命に伴う酷しい苦難を喜んで受け止めるものです。霊性の進化を促進してくれることを理解しているからです」


――それが罪滅ぼしの場合もあるのではないのでしょうか。また、言うことを聞かない霊が程度の低い天体へ送られることもあるのではないのでしょうか。

「霊は進化が止まることはあっても決して退化することはありません。言うことを聞かない霊は進化を止められるという形で罰を受けることがあり、また無駄に終わらせた物的生活を、その本性に合った条件のもとで、もう一度やり直しをさせられることがあります」

――もう一度やり直しをさせられるのはどういう霊の場合ですか。

「与えられた使命を怠った者、あるいは用意された試練に耐え切れずに安易な道を選んだ者などです」




――予備的な学習もしないのに、たとえば言語とか数学、音楽などで驚異的な才能を見せる人がいますが、何が原因でしょうか。

「今言った過去世の記憶です。かつてそういう才能を磨いていたもので、現在は意識的な記憶がないだけです。もしそうでなかったら一体どこからそういう才覚が出ますか。身体は代わっても霊は同一人物ということです。衣服を着更えただけです」



――スピリチュアリズムで説かれている霊的真理と同じものが、いずこの民族にも見られますが、これも前世の回想でしょうか。

「こうした霊的真理は地球の歴史と同じくらい古くからあったもので、それが世界中のいたるところで発見されるのは当然のことです。いわゆる遍在で、真理であることの証拠です。再生してきた霊は、霊としての存在の時の直観力を保持していて、見えざる世界の存在を直観的に意識しているのです。ただその直観力が往々にして偏見によって歪められ、無知から生じた迷信とごっちゃになって質を落として行くのです」




5章 霊としての生活

――霊も音楽に感動しますか。

「地上の音楽のことですか? 天上の音楽に比べて、一体あれが音楽と言えますか? 天上の音楽のハーモニーを譬えるものは地上にはありません。未開人のわめき声と素敵なメロディほどの差があります。もっとも低級霊の中には地上の音楽を好む者がいます。それ以上の崇高なものが理解できないのです。

高級霊にとって音楽は汲めども尽きぬ魅力の泉です。審美的感覚が発達しているからです。私が言っているのは天上の音楽のことです。これほど甘美で麗しいものは、霊的想像力をもってしても、まず考えられません」



〈試練の選択〉
――霊界でのさすらいの状態にある霊は、新たな物的生活に入る(再生する)前に、それがどのような人生になるかを予見できるのでしょうか。

「遭遇する試練については自分で選択します。そこに霊としての自由意志の行使が認められます」

――すると罰として苦難を科するのは神ではないのですね?

「神の裁可なくして何事も発生しません。宇宙を経綸するための全法則・全摂理をこしらえたのは神なのですから。

あなた方人間の立場から見ると、神はなぜこんな摂理をこしらえたのか――他に方法がありそうなものだが……と疑問に思うこともあることでしょう。実は各霊に選択の自由を与えるに際しては神は、同時に、その行為とその行為が生み出す結果についての一切の責任も担わせているのです。

霊が自ら選んで進もうとするのを遮るものは何もありません。悪の道を歩むのもよし、善の道を歩むのもよし。かりに悪徳の誘惑に負けて悪の道に入っても、もはや取り返しがつかないというようなことにはなっておりません。しくじった人生をもう一度始めからやり直す機会が与えられます。

もう一つ申し上げておきたいのは、神の意志による業(わざ)と、人間の意志による業とを截然と区別しなければならないということです。例えばあなたが危機にさらされたとします。その危機そのものはあなたがこしらえたのではありません。神が用意したのです。しかし、その危機にさらされることを選択したのはあなた自身です。その危機に遭遇することの中に霊的成長の手段を見出して自ら志願し、そして神がそれを裁可したということです」



――地上時代の権力や地位は霊界でも通用しますか。

「しません。霊の世界では謙虚な者が高められ、尊大な者は卑められます。聖書を読みなさい」

――高められるとか卑められるとかいうのはどのように理解したらよいのでしょうか。

「霊には、身につけた霊性の差による秩序があるのはご存じのはずです。ですから地上で最高の地位についても、霊性が低ければ霊の世界では低い界層に位置し、その人の従者だった者が高い界層に位置することがあるのです。

まだ納得がいきませんか。イエスも言っているではありませんか――“およそ尊大な者は卑められ、謙虚な者は高められるであろう”と」(ルカ14・マルコ23)



――それはどうやって知るのでしょうか。

「霊は自分の過去世を見ることができるのです。自分の友や敵(かたき)の人生を誕生から死に至るまで見ることができます」



――その気になれば何でも思い出せますか。

「霊には、前世のありとあらゆる出来事の一部始終を、さらには心に抱いた思念までも、思い出す力がそなわっています。ただ、必要でもないものまで思い出すことはしません」




――国によっては命日というものを設けて法要が営まれるのですが、その日は特にその場に引き寄せられるものでしょうか。

「法要の日に限らず、情愛を込めて祈念された時は、いつでも引き寄せられます」

――法要の日は埋葬されている場所に赴くのでしょうか。

「大勢の人が集まってくれている時はその想念に引きつけられてそこへ赴きますが、義理で出席しているだけの人には無関心です。心から祈念してくれている人の一人一人のもとを訪れます」



6章 物質界への再誕


――再生の時期を早めたり遅らせたりすることは出来るのでしょうか。

「強烈な意念でもって望めば早めてもらうことは出来るでしょう。待ち受ける試練にしり込みして拒否の態度を続ければ延期してもらうことも出来るでしょう。人間界と同じで、霊界にも臆病者や横着者がいるものです。ですが、延期が叶えられても、それだけの代償は必ず払わされます。病気の治療と同じです。こういう療法で必ず治ると分かっているのにそれを拒否すれば、治るのが遅れるのは当たり前です」


――肉体に宿りきった瞬間は死後の意識の混乱と同じものを伴うのでしょうか。

「伴います。死後の混乱よりも大きく、とくに期間がずっと長く続きます。死後は肉体への隷属状態からの解放ですが、誕生は再びその状態に入り込むのですから」

――再生する瞬間は霊自身にとって厳粛な気持になるものでしょうか。

「譬えてみれば危険な航海に出て行く時の心境です。果たして無事荒海を乗り切ることができるかどうか、大いなる不安の中での船出です」


――生後二、三日で死亡するような嬰児に宿って再生することにどんな意味があるのでしょうか。

「その場合、新しい存在としての意義はまだ芽生えていませんから、死そのものの影響はほとんどありません。前にも述べましたが、こうした死は主として両親にとっての試練である場合が大半です」



――人工中絶はどの段階であっても罪悪でしょうか。

「神の摂理を犯す行為はすべて罪悪です。母親であろうと誰であろうと、生まれ出るべき胎児の生命を奪う者は必然的に罪を犯したことになります。生まれ出る身体に宿って再生し試練の一生を送るはずだった霊から、そのせっかくの機会を奪ったことになるからです」

――かりにその母親の生命が出産によって危機にさらされると診断された場合でも、中絶することは罪になるのでしょうか。

「すでに完成されている人体(母親)を犠牲にするよりも、まだ完成されていない人体(胎児)を犠牲にすべきでしょう」


〈霊的属性の発達〉
――人間の道徳性はどこから生まれるのでしょうか。

「その身体に宿っている霊の属性です。霊が純粋であるほど、その人からにじみ出る善性が際立ってきます」



――そうすると善人は善霊の生まれ変わりで、悪人は悪霊の生まれ変わりということでしょうか。

「それはそうなのですが、悪霊と言わずに“未熟霊”と言い変えた方がいいでしょう。そうしないと常に悪であり続ける霊、いわゆる悪魔が存在するかに想像される恐れがあります」



〈白痴と錯乱〉
――一般に白痴は普通の人間よりも下等と信じられていますが、そう信じてよい根拠があるのでしょうか。

「ありません。人間の魂であることに変わりはなく、実際には外見から想像するより遥かに高い知性を秘めていることがあります。ただ、それを発現させる機能が大きく阻害されているだけです。耳が聞こえない人、物が見えない人がいるのと同じです」


――そういう不幸な扱いを受けている人がいることにも神意があると思うのですが、一体どういう目的があるのでしょうか。

「白痴は大きな懲罰を受けている霊の再生です。そうした発育不全ないしは障害のある器官に拘束され、発現できない状態での苦痛を体験させられているのです」




7章 霊の解放

――霊にとって物的身体は居心地の良いものでしょうか。

「その質問は牢に入れられている囚人に向かって居心地はどうかと尋ねるようなものです。霊は、本性的には、一瞬の間もおかずに常に物的束縛からの解放を望んでいるものです。身体が鈍重であるほど一層それを望みます」



――肉体の睡眠中は霊も休息を取るのでしょうか。

「いいえ、霊が活動を停止することはありません。睡眠中は肉体につなぎ止めている絆(魂の緒(シルバーコード))が緩み、肉体も霊の存在を必要としなくなっているので、空間を自在に行き来し、他の霊と遥かに直接的なコミュニケーションを取っています」

――その睡眠中のことをなぜ思い出さないのでしょうか。

「あなた方が睡眠と呼んでいるものは肉体の休息のことです。霊は常に活動しています。その肉体の休息中に霊はかなりの程度の自由を回復し、この地上ないしは他の天体の親しい人とコミュニケーションを持ちます。その間の記憶が覚醒時に回想できないのは、肉体器官の物質性があまりに鈍重で粗野であるために、霊的波動の中での体験は感知できないからです」


〈共時性(シンクロニシティー)の原理〉
――同じアイディア、例えば発明・発見などを遠く離れた数人の人間が同時に思いつくというのはなぜでしょうか。

「前にも述べたように霊は睡眠中にもコミュニケーションを行っています。それが目が覚めてから頭に浮かび、本人はそれを自分で発明したと思い込みます。それと同じことが何人かの人間に同時に起きるのです」



――夢遊現象やトランス現象は何を教えているのでしょうか。

「過去世および来世のごく一部を垣間見せてくれるもの、といった程度に理解しておけば良いでしょう。が、現象そのものには、それを深く究めれば、ただの理性では入り込めない謎の解明のカギが秘められております」



――透視力は突発的に出るものでしょうか、それとも見ようという意志を働かせないと出ないものでしょうか。

「一般的には自然発生的に働きますが、意志の働きも大きな役割をすることがよくあります。たとえば占い師――そういう能力を持っている人なら誰でもよろしい――が未来を意識的に見ようとすれば透視力を働かせることになり、いわゆる“ビジョン”(未来の映像)を見ることになります」

――訓練によって発達させることも可能でしょうか。

「可能です。何事につけ、努力は進歩を生み、包み隠しているベールを取り払って行きます」


8章 霊の物質界への関与


――完ぺきに秘密にしていることでも分かりますか。

「あなた方が隠そうとしていることをよく見かけます。行為も思念も霊には隠せません」



――科学者や天才による発明・発見は自分で生み出すのでしょうか。

「自分の霊的産物であることもありますが、大抵は背後霊が教える価値があると判断し、正しく受け入れてくれると確信した上で示唆しています。その程度の科学者や天才になると、自分自身では生み出せないと自覚すると、無意識のうちにインスピレーションを求めるものです。一種のエボケーション(招霊)で、本人はそうとは気づいていません」




――悪の道に誘い込もうとする邪霊の影響を排除することは可能でしょうか。

「可能です。と言うのは、邪霊が付きまとうのはその人間自身の思念や欲望が邪だからです」


――俗に言う“取り憑く”ことはなくても、肉体に宿っている魂が低級霊によって支配され、思うように操られ、ついには自我意識がマヒしてしまうに至ることはないでしょうか。

「それは有り得ます。それが本来の意味での憑依の実態です。ですが、忘れないでいただきたいのは、そういう憑依現象は憑依される側の“弱み”または“自由意志”によってそういう事態になることを許しているということで、それがないかぎり発生しません。人間は永い間そういう現象をてんかんのような脳障害による症状と同じに考えて、霊的治療家よりも医者による治療にまかせてまいりました」

――憑依された状態から自力で脱することは可能でしょうか。

「可能です。本気でその気になれば、いかなる束縛状態でも解くことが出来ます」


――祈りはどうでしょうか。

「祈りが援助を呼び寄せることは事実です。ですが、その祈りがただ文句を唱えるだけのものでは何の効果もありません。天は自ら助くる者を助くとは至言です。自らは何も努力せずに、ただ願いごとを並べるだけの者には援助の手は差し延べません。ですから、憑依されている人間が、そもそも邪霊につけ入られることになった(依頼心が強いという)弱点・欠点を正すということがまず肝要です」


〈守護霊・指導霊〉
――人間各自には守ったり援助したりする目的で付いている霊がいるそうですが……

「います。霊的同志です。あなた方が指導霊(ガイド)と呼んでいるものです」

――守護霊(ガーディアン)というのはどういう存在でしょうか。

「霊格の高い指導霊のことです」

――守護霊の使命は何でしょうか。

「父と子供との関係と同じです。ある目的をもって、その成就のための道から外れないように、時には忠告を与え、悲しみの中で慰めを与え、苦難の中にあっては生き抜く勇気を与えたりします」




――霊団は道徳上の忠告や指導をするだけでなく、日常生活のことも気遣ってくれているのでしょうか。

「その人間に関わるあらゆる側面に気を配っています。責務としてやらねばならないことに関連して、いろいろと忠告を発しています。問題は人間側がそれに耳を傾けてくれないことで、結局は自分の判断の誤りで問題を大きくしているのです」



――我々第三者がその種の迫害に終止符を打たせる方法はないものでしょうか。

「多くの場合、祈ることによって終止符を打たせることができます。憎しみの念に対して愛の念を送り返すことによって、邪念に燃える霊に徐々に反省の気持を芽生えさせます。そして忍耐強く続けることによって愛は邪悪な企みに優ることを知らしめ、憎しみの空しさを抱かせ、かくして攻撃することを止めさせることになります」



〈自然界における霊の働き〉
――自然界の大変動は偶発的なものでしょうか、全てに神の意図があるのでしょうか。

「何事にも理由があります。神の許しなしに生じることは何一つありません」




――全ての現象の根源には神の意図があるに違いないことは認めますが、霊が物質に働きかけることが出来るからには、霊が神の意志の行使者として自然界の構成要素に働きかけて自然現象を起こしているのではないかと思うのですが……

「その通りですし、それ以外には考えられません。神が直接物質に働きかけることはありません。無限の階梯の一つ一つの界層に神の意志の行使者が控えています」

――例えば嵐を起こす場合、一人の霊の仕業でしょうか、それとも大勢の霊の仕業でしょうか。

「大勢の霊です。数え切れないほどの大群と言った方がいいでしょう」




8章 霊の物質界への関与
〈霊界から覗いた人間の生活〉
――霊には人間のすることが全部見えますか。

「その気になれば見ることができます。絶えず人間の身の周りにいるのですから。ですが、実際問題として、関心のないことには注意を払いませんから、受け持ちの範囲のことにしか注意を向けていません」

――完ぺきに秘密にしていることでも分かりますか。

「あなた方が隠そうとしていることをよく見かけます。行為も思念も霊には隠せません」

――そんな時、霊の方ではどんな気持で見ているのでしょうか。

「それはその霊自身の質によります。低級ないたずら霊だったら人間がイライラするような事態を生じさせ、カッカするのを見て面白がるでしょう。高級霊であればその愚行を憐れんで、その欠点を改めさせる方向で指導するでしょう」

〈人間の思念・行動に及ぼす霊的影響〉
――人間の思念や行動は霊の影響を受けているのでしょうか。

「あなた方が想像する以上に影響を受けています。と言うのも、そもそも人間は霊の指示で動いているのですから」

――我々自身から出た思念と、霊によって吹き込まれた思念があるのでしょうか。

「人間も思考力をもった霊です。従って当然、自分から出た思いもありますが、次から次へと考えが湧き、しかも同じ問題に関してしばしば対立する考えが入り込んでくることも経験しているはずです。そうした場合、どちらかが自分のもので、どちらかが霊に吹き込まれたものです。二つが相反するものですから決心が揺れるのです」

――そんな時はどのようにして区別したら良いのでしょうか。

「強いて言えば霊からの示唆は、あたかも語りかけられたような感じで、自分自身が考えたことは大抵最初に思い浮かんだものと言えますが、実際問題としてはその区別はどうでも良いことです。区別できない方が良い場合もあります。それだけ自分一人による自由な判断の範囲が広がるわけで、結果的に正しい選択であれば、自分の判断力に自信がつきますし、間違っていれば自分自身の間違いとして責任を一身に背負えることにもなるからです」

――科学者や天才による発明・発見は自分で生み出すのでしょうか。

「自分の霊的産物であることもありますが、大抵は背後霊が教える価値があると判断し、正しく受け入れてくれると確信した上で示唆しています。その程度の科学者や天才になると、自分自身では生み出せないと自覚すると、無意識のうちにインスピレーションを求めるものです。一種のエボケーション(招霊)で、本人はそうとは気づいていません」

――示唆されたアイディアが善霊からのものか邪霊からのものかは何によって判断すれば良いのでしょうか。

「内容をよく検討することです。善悪を見分けるのは人間自身です」

――悪の道に誘い込もうとする邪霊の影響を排除することは可能でしょうか。

「可能です。と言うのは、邪霊が付きまとうのはその人間自身の思念や欲望が邪だからです」

――人間側が悪の誘惑を拒絶した場合、邪霊は誘惑をあきらめますか。

「あきらめるしかないではないですか。もくろみ通りに行かないと分かれば、彼らは誘惑を止めます。ですが、ネコが常にネズミを狙っているように、その後もずっとスキを狙っているものと思ってください」

――邪霊が人間を悪の道に誘う時、その人間の置かれた境遇につけ入るのでしょうか、それとも彼らの思うツボにはまるような事情を作り出すことまでするのでしょうか。

「都合の良い条件が発生すればどんなことでも利用しますが、人間が良からぬ願望を抱くと、その目的の成就に向けて欲望を煽ります。人間はそれに気づきません。

例を挙げましょう。どこかの通りに大金の札束が落ちているとします。そこへその人間が通りかかりました。まさか霊が札束をそこへ置くはずはありません。そこを通りかかるように仕向けたのです。その札束を見つけてその人間はどういう態度に出るか――邪霊はそれを我がものとするように吹き込み、一方善霊は然るべきところへ届け出る考えを吹き込みます。どちらを選ぶか、それは当人の道義心の問題です。すべての誘惑は大体こんな風にして行われるのです」

〈憑依〉
――霊は人間の肉体に取り憑いて、その人間に代わって肉体を使用することができるのでしょうか。

「霊が憑依するといっても、部屋の中に入るような調子で人体に入り込むわけではありません。同じ欠点、同じ性癖をもつ人間と波動上でつながることはありますが、主体性を持つのはあくまでも肉体に宿っている霊です。霊と肉体とは一体不離の関係で結ばれており、神が定めた寿命が尽きるまで切り離されることはありません」

――俗に言う“取り憑く”ことはなくても、肉体に宿っている魂が低級霊によって支配され、思うように操られ、ついには自我意識がマヒしてしまうに至ることはないでしょうか。

「それは有り得ます。それが本来の意味での憑依の実態です。ですが、忘れないでいただきたいのは、そういう憑依現象は憑依される側の“弱み”または“自由意志”によってそういう事態になることを許しているということで、それがないかぎり発生しません。人間は永い間そういう現象をてんかんのような脳障害による症状と同じに考えて、霊的治療家よりも医者による治療にまかせてまいりました」

――憑依された状態から自力で脱することは可能でしょうか。

「可能です。本気でその気になれば、いかなる束縛状態でも解くことが出来ます」

――邪霊によって完全に憑依され、本人の自我意識が奪われたとします。そんな場合に第三者がその呪縛状態を解くことができるでしょうか。

「高潔な人格者が存在すれば、その意志の力で救済のための善霊の協力を引き寄せることが出来るかも知れません。人格が高潔であるほど霊力が強いですから、邪霊を追い払い、善霊(霊医)を呼び寄せることが出来るという理屈になります。ですが、そういう事態にまで至った場合、いかに優れた人物がいても、憑依されている本人が意識的に自由を取り戻そうとする意志を見せないかぎり、まったく無力です。

と言うのは、そういう人間は得てして依頼心が強く、堕落した好みや願望につけ入られても、それをむしろ快く思うものなのです。霊性の低い霊は高級霊から軽蔑されているというひがみ根性から救済に協力しようとしませんし、仮に協力しても邪霊集団の相手ではありません」

――悪魔払(エクソシズム)いの儀式は邪霊集団を追い払うのに役立ちますか。

「役には立ちません。真面目くさってそういう儀式をやっているのを見て、邪霊たちは小ばかにします。そして、ますます憑依状態を続けます」

――祈りはどうでしょうか。

「祈りが援助を呼び寄せることは事実です。ですが、その祈りがただ文句を唱えるだけのものでは何の効果もありません。天は自ら助くる者を助くとは至言です。自らは何も努力せずに、ただ願いごとを並べるだけの者には援助の手は差し延べません。ですから、憑依されている人間が、そもそも邪霊につけ入られることになった(依頼心が強いという)弱点・欠点を正すということがまず肝要です」

〈守護霊・指導霊〉
――人間各自には守ったり援助したりする目的で付いている霊がいるそうですが……

「います。霊的同志です。あなた方が指導霊(ガイド)と呼んでいるものです」

――守護霊(ガーディアン)というのはどういう存在でしょうか。

「霊格の高い指導霊のことです」

――守護霊の使命は何でしょうか。

「父と子供との関係と同じです。ある目的をもって、その成就のための道から外れないように、時には忠告を与え、悲しみの中で慰めを与え、苦難の中にあっては生き抜く勇気を与えたりします」

――誕生の時から付いているのでしょうか。

「誕生から死に至るまでです。しばしば死後霊界でも、あるいはその後の幾つかの再生生活でも守護霊として付くことがあります。霊的観点から見れば、物的生活を幾つ重ねても、ごく短いものです」

――守護霊という役目は自発的なものでしょうか、強制的なものでしょうか。

「あなた(カルデック)の守護霊の場合は要請されて引き受けていますから、義務としてあなたを見守っています。が、一般的に言えば守護霊は自分で親和性の強い人間を選ぶことを許されております。楽しみとして進んで引き受ける場合もありますし、使命ないしは義務として引き受ける場合もあります」

――一人の人間の守護霊となった以上は他の人間の面倒は見ないのでしょうか。

「そうとは限りません。が、控え目にはなるでしょう」

――守護霊が人間を見捨てるということが有り得ますか。

「いくら忠告を発しても聞く耳を持たず、低級霊の誘いに完全にはまってしまったと見た場合は、手を引くことがあります。と言っても見捨てるわけではありません。わずかなチャンスを狙って善の道に引き戻そうとします。守護霊が人間を見捨てるのではなく、人間の方が守護霊の言うことに耳を貸さなくなるということです。霊性が目覚めて善性を求めるようになれば、喜んで受け入れます。

それほど労が多く、報われることが少なく、忍耐のいる仕事に高級霊が携わるのが信じられないと思われる方には、こうお答えしましょう。まず第一は、我々は高遠の世界からわざわざ地上まで下降してくるわけではありません。計り知れないほどの距離も我々には何の障害にもならず、次元を異にする世界にいても交信は可能だということです。

もう一つは、我々には人間には想像もできない資質があるということです。神は我々の手に負えないほどの仕事は決して課しませんし、人間を、友も援助者(背後霊団)も付けずに地球という孤島に島流しにしたわけではありません。一人一人に必ず守護霊が付いており、父が我が子を見守るように、一瞬の休みもなく見守っています。言うことを聞いてくれれば喜び、無視されると残念がっております」

――人間が悪の道に入って行くのを守護霊も許すことがあるとおっしゃいましたが、それは邪霊集団に太刀打ちできないからでしょうか。

「そうではありません。太刀打ちする、つまり邪霊集団と張り合うよりも、思い切ってその道に入らせても本人は必ずや間違いを悟って大きく成長するという確信があるからです。

守護霊は常に賢明な助言の思念を送っていますが、必ずしも聞き入れてもらえません。邪霊がつけ入るのはそうした弱点、スキ、慢心などを通してです。それに負けるのは、抵抗するだけの霊性が身についていないことを意味します」

――守護霊を必要としなくなる段階があるのでしょうか。

「あります。生徒が十分に学んで先生を必要としなくなる時期があるように、守護霊がいなくても一人で十分にやって行ける段階が来ます。しかし、地上界に関するかぎり、そういうことは有り得ません」

――歴史上の有名人の名を名のっている守護霊は間違いなくその人物でしょうか。

「そうとは限りません。同じ霊系に属する、ほぼ霊格の同じ霊である場合があり、多くの場合、当人から依頼を受けて出ています。(偽っているわけではなく)人間の方が名前にこだわるものですから、それで安心させる意味でその名を使用するのです。あなた方だって使いの用事を言いつけられて、どうしても都合がつかない時は代理の者を行かせることがあるでしょう。それと同じです」

――霊界へ行って守護霊に会えばそれと分かりますか。

「分かります。と言うのは、多くの場合、再生する前まで顔見知りの間柄だからです」

――未開人や文明人で道徳的意識の低い人にでも守護霊がついているのでしょうか。

「守護霊の付いていない人間はいません。ただ、割り当てられる責務によって守護霊の霊格も違ってきます。読み書きを習い始めたばかりの子供に大学教授を家庭教師に付けますか。神は常に一人一人の人間の本性とそれまでに到達した霊性に応じて守護霊を付けます」

――守護霊とは別に、善悪の判断力を試す目的で邪霊も一人一人に付けられているのでしょうか。

「“付けられている”という言い方は正しくありません。確かに、悪の道へ誘い込もうとしてスキを伺っている複数の低級霊が必ずいるものです。が、仮にその邪霊の一人が実際に人間に付きまとうようになったら、それはその邪霊が何らかの意図をもってやっていることです。その場合は言わば善と悪との闘いとなるわけで、どっちに軍配が上がるかは当人の判断力にかかっております」

――守護霊のほかにも面倒をみてくれている霊がいるのでしょうか。

「今述べたように悪の道に誘惑しようとする邪霊が何人もいるように、守護霊(ガイド)の指示のもとで面倒をみてくれている指導霊が何人かいます。霊格の高さはまちまちですが、親和性があり、情愛で結ばれております」

――そうしたガイドは使命があって付くのでしょうか。

「霊によっては一時的な使命を仰せ付かっている場合がないでもありませんが、一般的には、良きにつけ悪しきにつけ、情緒的に共通する霊が付くものです」

――今のお言葉ですと親和力で結ばれている霊でも善霊と悪霊とがいることになりますが……

「その通りです。性格のいかんにかかわらず、相通じ合う霊に取り囲まれていると思うがよろしい」

――“親しい霊”は“親和力で結ばれている霊”および“守護してくれる霊”と同じでしょうか。

「“守護に当たる”とか“親和性に富む”という表現にもいろいろと意味合いがあります。どう呼んでも構いませんが、“親しい霊”という場合は“身内の霊”といった家族的な意味合いが強いです」

――社会、一都市、一国家にも特別の霊団が付いているのでしょうか。

「付いています。そういう集団には共通した目的があり、その目的によって指示を与える霊格の高い霊団が付いています」

――その種の霊団は一般個人の霊団よりも霊格が高いのでしょうか。

「個人の場合でも集団の場合でも人間側の霊性の発達程度に応じた霊団が組織されます」

〈人間生活への霊力の行使〉
――霊団は道徳上の忠告や指導をするだけでなく、日常生活のことも気遣ってくれているのでしょうか。

「その人間に関わるあらゆる側面に気を配っています。責務としてやらねばならないことに関連して、いろいろと忠告を発しています。問題は人間側がそれに耳を傾けてくれないことで、結局は自分の判断の誤りで問題を大きくしているのです」

――思念で忠告する以外に、直接的に霊力で働きかけることはないのでしょうか。

「あります。ですが、それにも許される自然法則の範囲があり、それを超えることはありません」

――例えばある人が梯子をのぼっていて、途中で梯子の段が折れて落下して死亡したとします。このような場合、そういう宿命を果たすために霊力でその梯子を折るようなことをするのでしょうか。

「霊が物質に働きかける力を持っていることは明らかですが、それはあくまでも自然法則の運用のためであって、ある予期せぬ出来事を起こすために法則に逆らって演出するようなことは許されません。

今おっしゃった事故の場合は梯子の材木が腐っていたか、その人間の体重が重すぎたかの、いずれかの原因で折れたのでしょう。つまり自然法則の結果です。そのことと、その人間の死との関連は、そういう梯子を使用するような事態に至るというところに運命的な働きがあったと見るべきであって、殺すために超自然現象で梯子を折るということをするわけではありません」

――もう一つ例を挙げますと、急に嵐になって近くの大木の下に雨宿りをしていたら、その木に雷が落ちて死亡したとします。この場合、霊がその木を目がけて雷を落としたのでしょうか。

「これも先ほどの例と同じです。雷は自然法則に従ってその木に落ちたのであって、その人を殺す目的でその木に命中させたわけではありません。その人がその木の下にいようがいまいが雷は落ちたでしょう。肝心な点はその木に雨宿りしようという考えを抱いたことです」

――地上時代に他人に危害を与えた者が霊界へ戻ると、その時に抱いた敵意は消えるものでしょうか。

「自分の行為の間違いに気づき後悔の念を抱く者が多いのですが、相変わらず敵意を抱き続けているケースも少なくありません。そういう関係は試練の延長として神が認めているのです」

――我々第三者がその種の迫害に終止符を打たせる方法はないものでしょうか。

「多くの場合、祈ることによって終止符を打たせることができます。憎しみの念に対して愛の念を送り返すことによって、邪念に燃える霊に徐々に反省の気持を芽生えさせます。そして忍耐強く続けることによって愛は邪悪な企みに優ることを知らしめ、憎しみの空しさを抱かせ、かくして攻撃することを止めさせることになります」

〈自然界における霊の働き〉
――自然界の大変動は偶発的なものでしょうか、全てに神の意図があるのでしょうか。

「何事にも理由があります。神の許しなしに生じることは何一つありません」

――そうしたものは全て人間との関連性があるのでしょうか。

「人間に関連したものも時にはありますが、大部分は大自然が均衡と調和を取り戻そうとする働きに過ぎません」

――全ての現象の根源には神の意図があるに違いないことは認めますが、霊が物質に働きかけることが出来るからには、霊が神の意志の行使者として自然界の構成要素に働きかけて自然現象を起こしているのではないかと思うのですが……

「その通りですし、それ以外には考えられません。神が直接物質に働きかけることはありません。無限の階梯の一つ一つの界層に神の意志の行使者が控えています」

――例えば嵐を起こす場合、一人の霊の仕業でしょうか、それとも大勢の霊の仕業でしょうか。

「大勢の霊です。数え切れないほどの大群と言った方がいいでしょう」

――その場合、自由意志によって、知識と意図をもって現象を起こすのでしょうか、それとも理性のない本能的衝動から発しているのでしょうか。

「知識と意図をもって携わっている者もいれば、本能だけで働いている者もいます。譬え話で説明しましょう。

今大海のどまん中に一群の島が出来つつあるとします。その島の生成について神が認知していないはずはありませんし、その群島の出現が大海という地球の表面の調和に影響を及ぼさないはずはありません。ところが、その生成に携わるのは最下等の極微動物であり、神の道具として使用されているという認識などみじんもありません。ただ動物の本能で働いているだけです。

同じことが最下等の霊的存在についても言えます。自由意志もなく、何の目的なのかについての自覚もないまま大自然のさまざまな側面での現象の演出に携わっております。指令を発する存在がいて、それに反応して働く存在(精霊)がいます。それが知的進化を遂げて指令を発する立場にまわり、造化の仕事から倫理・道徳の摂理の管理へと進みます。

このように大自然は根本の原子から始まって大天使に至るまでの雄大なスケールの存在の調和によって進化しており、その全体像は地上の人間の理解力では遠く及びません」






〈戦争と霊〉
――戦争が行われている時は霊界でも敵と味方がいるのでしょうか。

「当然います。そして戦闘意欲をかき立てています」

――戦争はどちらかの側に非があると思うのですが、なぜ非のある側に味方する霊がいるのでしょうか。

「改めて申すまでもないことですが、霊の中には混乱と破壊だけを楽しみにしている邪霊集団がいます。そういう連中にとっては戦争のための戦争であって、正当とか不当とかはどうでも良いことなのです」





8章 霊の物質界への関与
〈霊界から覗いた人間の生活〉
――霊には人間のすることが全部見えますか。

「その気になれば見ることができます。絶えず人間の身の周りにいるのですから。ですが、実際問題として、関心のないことには注意を払いませんから、受け持ちの範囲のことにしか注意を向けていません」

――完ぺきに秘密にしていることでも分かりますか。

「あなた方が隠そうとしていることをよく見かけます。行為も思念も霊には隠せません」

――そんな時、霊の方ではどんな気持で見ているのでしょうか。

「それはその霊自身の質によります。低級ないたずら霊だったら人間がイライラするような事態を生じさせ、カッカするのを見て面白がるでしょう。高級霊であればその愚行を憐れんで、その欠点を改めさせる方向で指導するでしょう」

〈人間の思念・行動に及ぼす霊的影響〉
――人間の思念や行動は霊の影響を受けているのでしょうか。

「あなた方が想像する以上に影響を受けています。と言うのも、そもそも人間は霊の指示で動いているのですから」

――我々自身から出た思念と、霊によって吹き込まれた思念があるのでしょうか。

「人間も思考力をもった霊です。従って当然、自分から出た思いもありますが、次から次へと考えが湧き、しかも同じ問題に関してしばしば対立する考えが入り込んでくることも経験しているはずです。そうした場合、どちらかが自分のもので、どちらかが霊に吹き込まれたものです。二つが相反するものですから決心が揺れるのです」

――そんな時はどのようにして区別したら良いのでしょうか。

「強いて言えば霊からの示唆は、あたかも語りかけられたような感じで、自分自身が考えたことは大抵最初に思い浮かんだものと言えますが、実際問題としてはその区別はどうでも良いことです。区別できない方が良い場合もあります。それだけ自分一人による自由な判断の範囲が広がるわけで、結果的に正しい選択であれば、自分の判断力に自信がつきますし、間違っていれば自分自身の間違いとして責任を一身に背負えることにもなるからです」

――科学者や天才による発明・発見は自分で生み出すのでしょうか。

「自分の霊的産物であることもありますが、大抵は背後霊が教える価値があると判断し、正しく受け入れてくれると確信した上で示唆しています。その程度の科学者や天才になると、自分自身では生み出せないと自覚すると、無意識のうちにインスピレーションを求めるものです。一種のエボケーション(招霊)で、本人はそうとは気づいていません」

――示唆されたアイディアが善霊からのものか邪霊からのものかは何によって判断すれば良いのでしょうか。

「内容をよく検討することです。善悪を見分けるのは人間自身です」

――悪の道に誘い込もうとする邪霊の影響を排除することは可能でしょうか。

「可能です。と言うのは、邪霊が付きまとうのはその人間自身の思念や欲望が邪だからです」

――人間側が悪の誘惑を拒絶した場合、邪霊は誘惑をあきらめますか。

「あきらめるしかないではないですか。もくろみ通りに行かないと分かれば、彼らは誘惑を止めます。ですが、ネコが常にネズミを狙っているように、その後もずっとスキを狙っているものと思ってください」

――邪霊が人間を悪の道に誘う時、その人間の置かれた境遇につけ入るのでしょうか、それとも彼らの思うツボにはまるような事情を作り出すことまでするのでしょうか。

「都合の良い条件が発生すればどんなことでも利用しますが、人間が良からぬ願望を抱くと、その目的の成就に向けて欲望を煽ります。人間はそれに気づきません。

例を挙げましょう。どこかの通りに大金の札束が落ちているとします。そこへその人間が通りかかりました。まさか霊が札束をそこへ置くはずはありません。そこを通りかかるように仕向けたのです。その札束を見つけてその人間はどういう態度に出るか――邪霊はそれを我がものとするように吹き込み、一方善霊は然るべきところへ届け出る考えを吹き込みます。どちらを選ぶか、それは当人の道義心の問題です。すべての誘惑は大体こんな風にして行われるのです」

〈憑依〉
――霊は人間の肉体に取り憑いて、その人間に代わって肉体を使用することができるのでしょうか。

「霊が憑依するといっても、部屋の中に入るような調子で人体に入り込むわけではありません。同じ欠点、同じ性癖をもつ人間と波動上でつながることはありますが、主体性を持つのはあくまでも肉体に宿っている霊です。霊と肉体とは一体不離の関係で結ばれており、神が定めた寿命が尽きるまで切り離されることはありません」

――俗に言う“取り憑く”ことはなくても、肉体に宿っている魂が低級霊によって支配され、思うように操られ、ついには自我意識がマヒしてしまうに至ることはないでしょうか。

「それは有り得ます。それが本来の意味での憑依の実態です。ですが、忘れないでいただきたいのは、そういう憑依現象は憑依される側の“弱み”または“自由意志”によってそういう事態になることを許しているということで、それがないかぎり発生しません。人間は永い間そういう現象をてんかんのような脳障害による症状と同じに考えて、霊的治療家よりも医者による治療にまかせてまいりました」

――憑依された状態から自力で脱することは可能でしょうか。

「可能です。本気でその気になれば、いかなる束縛状態でも解くことが出来ます」

――邪霊によって完全に憑依され、本人の自我意識が奪われたとします。そんな場合に第三者がその呪縛状態を解くことができるでしょうか。

「高潔な人格者が存在すれば、その意志の力で救済のための善霊の協力を引き寄せることが出来るかも知れません。人格が高潔であるほど霊力が強いですから、邪霊を追い払い、善霊(霊医)を呼び寄せることが出来るという理屈になります。ですが、そういう事態にまで至った場合、いかに優れた人物がいても、憑依されている本人が意識的に自由を取り戻そうとする意志を見せないかぎり、まったく無力です。

と言うのは、そういう人間は得てして依頼心が強く、堕落した好みや願望につけ入られても、それをむしろ快く思うものなのです。霊性の低い霊は高級霊から軽蔑されているというひがみ根性から救済に協力しようとしませんし、仮に協力しても邪霊集団の相手ではありません」

――悪魔払(エクソシズム)いの儀式は邪霊集団を追い払うのに役立ちますか。

「役には立ちません。真面目くさってそういう儀式をやっているのを見て、邪霊たちは小ばかにします。そして、ますます憑依状態を続けます」

――祈りはどうでしょうか。

「祈りが援助を呼び寄せることは事実です。ですが、その祈りがただ文句を唱えるだけのものでは何の効果もありません。天は自ら助くる者を助くとは至言です。自らは何も努力せずに、ただ願いごとを並べるだけの者には援助の手は差し延べません。ですから、憑依されている人間が、そもそも邪霊につけ入られることになった(依頼心が強いという)弱点・欠点を正すということがまず肝要です」

〈守護霊・指導霊〉
――人間各自には守ったり援助したりする目的で付いている霊がいるそうですが……

「います。霊的同志です。あなた方が指導霊(ガイド)と呼んでいるものです」

――守護霊(ガーディアン)というのはどういう存在でしょうか。

「霊格の高い指導霊のことです」

――守護霊の使命は何でしょうか。

「父と子供との関係と同じです。ある目的をもって、その成就のための道から外れないように、時には忠告を与え、悲しみの中で慰めを与え、苦難の中にあっては生き抜く勇気を与えたりします」

――誕生の時から付いているのでしょうか。

「誕生から死に至るまでです。しばしば死後霊界でも、あるいはその後の幾つかの再生生活でも守護霊として付くことがあります。霊的観点から見れば、物的生活を幾つ重ねても、ごく短いものです」

――守護霊という役目は自発的なものでしょうか、強制的なものでしょうか。

「あなた(カルデック)の守護霊の場合は要請されて引き受けていますから、義務としてあなたを見守っています。が、一般的に言えば守護霊は自分で親和性の強い人間を選ぶことを許されております。楽しみとして進んで引き受ける場合もありますし、使命ないしは義務として引き受ける場合もあります」

――一人の人間の守護霊となった以上は他の人間の面倒は見ないのでしょうか。

「そうとは限りません。が、控え目にはなるでしょう」

――守護霊が人間を見捨てるということが有り得ますか。

「いくら忠告を発しても聞く耳を持たず、低級霊の誘いに完全にはまってしまったと見た場合は、手を引くことがあります。と言っても見捨てるわけではありません。わずかなチャンスを狙って善の道に引き戻そうとします。守護霊が人間を見捨てるのではなく、人間の方が守護霊の言うことに耳を貸さなくなるということです。霊性が目覚めて善性を求めるようになれば、喜んで受け入れます。

それほど労が多く、報われることが少なく、忍耐のいる仕事に高級霊が携わるのが信じられないと思われる方には、こうお答えしましょう。まず第一は、我々は高遠の世界からわざわざ地上まで下降してくるわけではありません。計り知れないほどの距離も我々には何の障害にもならず、次元を異にする世界にいても交信は可能だということです。

もう一つは、我々には人間には想像もできない資質があるということです。神は我々の手に負えないほどの仕事は決して課しませんし、人間を、友も援助者(背後霊団)も付けずに地球という孤島に島流しにしたわけではありません。一人一人に必ず守護霊が付いており、父が我が子を見守るように、一瞬の休みもなく見守っています。言うことを聞いてくれれば喜び、無視されると残念がっております」

――人間が悪の道に入って行くのを守護霊も許すことがあるとおっしゃいましたが、それは邪霊集団に太刀打ちできないからでしょうか。

「そうではありません。太刀打ちする、つまり邪霊集団と張り合うよりも、思い切ってその道に入らせても本人は必ずや間違いを悟って大きく成長するという確信があるからです。

守護霊は常に賢明な助言の思念を送っていますが、必ずしも聞き入れてもらえません。邪霊がつけ入るのはそうした弱点、スキ、慢心などを通してです。それに負けるのは、抵抗するだけの霊性が身についていないことを意味します」

――守護霊を必要としなくなる段階があるのでしょうか。

「あります。生徒が十分に学んで先生を必要としなくなる時期があるように、守護霊がいなくても一人で十分にやって行ける段階が来ます。しかし、地上界に関するかぎり、そういうことは有り得ません」

――歴史上の有名人の名を名のっている守護霊は間違いなくその人物でしょうか。

「そうとは限りません。同じ霊系に属する、ほぼ霊格の同じ霊である場合があり、多くの場合、当人から依頼を受けて出ています。(偽っているわけではなく)人間の方が名前にこだわるものですから、それで安心させる意味でその名を使用するのです。あなた方だって使いの用事を言いつけられて、どうしても都合がつかない時は代理の者を行かせることがあるでしょう。それと同じです」

――霊界へ行って守護霊に会えばそれと分かりますか。

「分かります。と言うのは、多くの場合、再生する前まで顔見知りの間柄だからです」

――未開人や文明人で道徳的意識の低い人にでも守護霊がついているのでしょうか。

「守護霊の付いていない人間はいません。ただ、割り当てられる責務によって守護霊の霊格も違ってきます。読み書きを習い始めたばかりの子供に大学教授を家庭教師に付けますか。神は常に一人一人の人間の本性とそれまでに到達した霊性に応じて守護霊を付けます」

――守護霊とは別に、善悪の判断力を試す目的で邪霊も一人一人に付けられているのでしょうか。

「“付けられている”という言い方は正しくありません。確かに、悪の道へ誘い込もうとしてスキを伺っている複数の低級霊が必ずいるものです。が、仮にその邪霊の一人が実際に人間に付きまとうようになったら、それはその邪霊が何らかの意図をもってやっていることです。その場合は言わば善と悪との闘いとなるわけで、どっちに軍配が上がるかは当人の判断力にかかっております」

――守護霊のほかにも面倒をみてくれている霊がいるのでしょうか。

「今述べたように悪の道に誘惑しようとする邪霊が何人もいるように、守護霊(ガイド)の指示のもとで面倒をみてくれている指導霊が何人かいます。霊格の高さはまちまちですが、親和性があり、情愛で結ばれております」

――そうしたガイドは使命があって付くのでしょうか。

「霊によっては一時的な使命を仰せ付かっている場合がないでもありませんが、一般的には、良きにつけ悪しきにつけ、情緒的に共通する霊が付くものです」

――今のお言葉ですと親和力で結ばれている霊でも善霊と悪霊とがいることになりますが……

「その通りです。性格のいかんにかかわらず、相通じ合う霊に取り囲まれていると思うがよろしい」

――“親しい霊”は“親和力で結ばれている霊”および“守護してくれる霊”と同じでしょうか。

「“守護に当たる”とか“親和性に富む”という表現にもいろいろと意味合いがあります。どう呼んでも構いませんが、“親しい霊”という場合は“身内の霊”といった家族的な意味合いが強いです」

――社会、一都市、一国家にも特別の霊団が付いているのでしょうか。

「付いています。そういう集団には共通した目的があり、その目的によって指示を与える霊格の高い霊団が付いています」

――その種の霊団は一般個人の霊団よりも霊格が高いのでしょうか。

「個人の場合でも集団の場合でも人間側の霊性の発達程度に応じた霊団が組織されます」

〈人間生活への霊力の行使〉
――霊団は道徳上の忠告や指導をするだけでなく、日常生活のことも気遣ってくれているのでしょうか。

「その人間に関わるあらゆる側面に気を配っています。責務としてやらねばならないことに関連して、いろいろと忠告を発しています。問題は人間側がそれに耳を傾けてくれないことで、結局は自分の判断の誤りで問題を大きくしているのです」

――思念で忠告する以外に、直接的に霊力で働きかけることはないのでしょうか。

「あります。ですが、それにも許される自然法則の範囲があり、それを超えることはありません」

――例えばある人が梯子をのぼっていて、途中で梯子の段が折れて落下して死亡したとします。このような場合、そういう宿命を果たすために霊力でその梯子を折るようなことをするのでしょうか。

「霊が物質に働きかける力を持っていることは明らかですが、それはあくまでも自然法則の運用のためであって、ある予期せぬ出来事を起こすために法則に逆らって演出するようなことは許されません。

今おっしゃった事故の場合は梯子の材木が腐っていたか、その人間の体重が重すぎたかの、いずれかの原因で折れたのでしょう。つまり自然法則の結果です。そのことと、その人間の死との関連は、そういう梯子を使用するような事態に至るというところに運命的な働きがあったと見るべきであって、殺すために超自然現象で梯子を折るということをするわけではありません」

――もう一つ例を挙げますと、急に嵐になって近くの大木の下に雨宿りをしていたら、その木に雷が落ちて死亡したとします。この場合、霊がその木を目がけて雷を落としたのでしょうか。

「これも先ほどの例と同じです。雷は自然法則に従ってその木に落ちたのであって、その人を殺す目的でその木に命中させたわけではありません。その人がその木の下にいようがいまいが雷は落ちたでしょう。肝心な点はその木に雨宿りしようという考えを抱いたことです」

――地上時代に他人に危害を与えた者が霊界へ戻ると、その時に抱いた敵意は消えるものでしょうか。

「自分の行為の間違いに気づき後悔の念を抱く者が多いのですが、相変わらず敵意を抱き続けているケースも少なくありません。そういう関係は試練の延長として神が認めているのです」

――我々第三者がその種の迫害に終止符を打たせる方法はないものでしょうか。

「多くの場合、祈ることによって終止符を打たせることができます。憎しみの念に対して愛の念を送り返すことによって、邪念に燃える霊に徐々に反省の気持を芽生えさせます。そして忍耐強く続けることによって愛は邪悪な企みに優ることを知らしめ、憎しみの空しさを抱かせ、かくして攻撃することを止めさせることになります」

〈自然界における霊の働き〉
――自然界の大変動は偶発的なものでしょうか、全てに神の意図があるのでしょうか。

「何事にも理由があります。神の許しなしに生じることは何一つありません」

――そうしたものは全て人間との関連性があるのでしょうか。

「人間に関連したものも時にはありますが、大部分は大自然が均衡と調和を取り戻そうとする働きに過ぎません」

――全ての現象の根源には神の意図があるに違いないことは認めますが、霊が物質に働きかけることが出来るからには、霊が神の意志の行使者として自然界の構成要素に働きかけて自然現象を起こしているのではないかと思うのですが……

「その通りですし、それ以外には考えられません。神が直接物質に働きかけることはありません。無限の階梯の一つ一つの界層に神の意志の行使者が控えています」

――例えば嵐を起こす場合、一人の霊の仕業でしょうか、それとも大勢の霊の仕業でしょうか。

「大勢の霊です。数え切れないほどの大群と言った方がいいでしょう」

――その場合、自由意志によって、知識と意図をもって現象を起こすのでしょうか、それとも理性のない本能的衝動から発しているのでしょうか。

「知識と意図をもって携わっている者もいれば、本能だけで働いている者もいます。譬え話で説明しましょう。

今大海のどまん中に一群の島が出来つつあるとします。その島の生成について神が認知していないはずはありませんし、その群島の出現が大海という地球の表面の調和に影響を及ぼさないはずはありません。ところが、その生成に携わるのは最下等の極微動物であり、神の道具として使用されているという認識などみじんもありません。ただ動物の本能で働いているだけです。

同じことが最下等の霊的存在についても言えます。自由意志もなく、何の目的なのかについての自覚もないまま大自然のさまざまな側面での現象の演出に携わっております。指令を発する存在がいて、それに反応して働く存在(精霊)がいます。それが知的進化を遂げて指令を発する立場にまわり、造化の仕事から倫理・道徳の摂理の管理へと進みます。

このように大自然は根本の原子から始まって大天使に至るまでの雄大なスケールの存在の調和によって進化しており、その全体像は地上の人間の理解力では遠く及びません」

〈戦争と霊〉
――戦争が行われている時は霊界でも敵と味方がいるのでしょうか。

「当然います。そして戦闘意欲をかき立てています」

――戦争はどちらかの側に非があると思うのですが、なぜ非のある側に味方する霊がいるのでしょうか。

「改めて申すまでもないことですが、霊の中には混乱と破壊だけを楽しみにしている邪霊集団がいます。そういう連中にとっては戦争のための戦争であって、正当とか不当とかはどうでも良いことなのです」

――司令官が作戦を練るに当たって霊団から指示が与えられるでしょうか。

「当然です。他の生活面と同様に、作戦にも参加します」

――敵方の霊がまずい作戦を吹き込むことも有り得ますか。

「有り得ます。しかし司令官にも自由意志があります。守護霊団が吹き込む作戦と敵方の霊団が吹き込む作戦のどちらに決断するかに迷い、結果的に作戦に失敗した時は、その責任は自分が負わねばなりません」

――司令官の中には予知能力のある人がいて作戦の行方を予見することがあるそうですが……

「天才的な軍人によくあることです。いわゆるインスピレーションを的確に受け取れる人で、それを受けた時は自信をもって命令を発します。霊団から送られてくるもので、それを天賦の霊能で受け取ります」

――戦闘中に戦死した霊はどうなるのでしょうか。霊界でも戦い続けるのでしょうか。

「戦い続ける者もいますし、撤退する者もいます」

――戦場の爆音や鬨(とき)の声などは相変わらず聞こえるのですか。

「聞こえます、そっくりそのまま」

――仮に霊が傍観者として冷静に戦場の様子を見つめていれば、斃(たお)れた人間から霊が次々と離脱して行く様子が見えますか。

「全ての戦死者の死が一瞬の間に成就されるわけではありません。大抵は、肉体的には即死の状態でも、霊はそのことに気づきません。精神的に落ち着きを取り戻すと自分の死体がそばに横たわっていることに気づきます。が、その過程が実に自然なので動揺することはありません」




〈魔よけ・呪術〉
――邪悪な人間が邪霊の助けを借りて怨みの相手に危害を加えることは出来ますか。

「出来ません。そういうことは神が許しません」

――でも、呪術をかける力を持った人間がいるという信仰がありますが……

「強力な生体磁気を持っている人間がいます。その人間の心が邪悪であればそれを悪用することは考えられます。その場合に似たような邪悪な霊が加担することも有り得ることです。しかし、それを超自然的な魔力のせいにしてはいけません。それは自然法則に無知な迷信的人間の想像力の中にのみ存在するものです。魔力が存在する証拠とされているものは自然な原因の働きによるものを間違って観察し、さらに間違った解釈をした結果です」



――霊の意念を操ることが出来るとされる呪文や秘法の効果は実際にあるのでしょうか。

「本当にそういうものを信じているとしたら、その効果はその人が嘲笑の的になることだけです。もしも信じていないのにそういうことをしているとしたら、それは詐欺師であり、処罰に値します。その種の儀式は全てペテンです。霊を操るような秘密の言葉やしるし、魔よけなどは存在しません。なぜなら、霊は思念で感応するのであって、物的なものではないからです」




9章 霊の仕事と使命


――霊は向上・進化のための体験以外に何か仕事があるのでしょうか。

「神の意志を成就させることによって宇宙に調和をもたらすべく協力し合っております。つまりは神の使徒というわけです。霊の生活は絶え間ない仕事の連続ですが、仕事といっても地上における辛い労務とはまったく異なります。身体的疲労もありませんし、身体の欲求(飲食等)を耐え忍ぶということもありません」



――怠惰な人生を送っている者がいますが、そういう人間にも使命は授けてあるのでしょうか。

「人間の中には、一生涯、自分のためにだけ生きて、何一つ世の中のために貢献しない者がいることは事実です。実に哀れむべき人間で、その無為の生涯への償いとして大変な苦しい目に遭うことでしょう。しばしば今生(こんじょう)にあるうちにそれが始まります。厭世観と嫌悪感に嘖(さいな)まれます」




10章 生命の四つの形態

――自然界の生命を鉱物と植物と動物、それに人類の四つに分ける説と、有機的生命と無機的生命の二つに分類する説とがありますが、どちらがよろしいでしょうか。

「どちらでも結構です。どちらにするかは観点の違いでしょう。物質に観点を置けば有機物と無機物の二つだけになります。生命に観点を置けば四つになることは明らかです」



第3部 摂理と法則


1章 自然法則

――自然法則とは何でしょうか。

「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」



1章 自然法則
〈自然法則の特性〉
――自然法則とは何でしょうか。

「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」

――神の摂理は永遠ですか。

「神ご自身と同じく永遠にして不変です」

――神の摂理は人間の倫理・道徳面だけに係わるものでしょうか。

「自然界の法則も全て神の摂理です。神が全存在の創造主だからです。科学の探求者は自然界の理法を研究し、善性の探求者はそれを魂の中に求め、そして実践します」

――人間はその全摂理に通暁できるのでしょうか。

「できます。ただし、たった一度や二度の地上生活では無理です」

――摂理は宇宙の全天体にわたって同一なのでしょうか。

「理性的に考えれば、当然、各天体の特殊性とそこに住む存在の発達程度に応じたものであるに決まっています」

〈自然法則の理解〉
――物的身体に宿る前の霊は、宿った後よりも神の摂理を明確に理解しているのでしょうか。

「到達した霊性の発達レベルに応じた理解をしており、身体に宿った後も直覚的な回想力を保持していますが、低劣な人間的本能がそれを忘れさせます」

――その摂理の理解は霊のどこに刻み込まれているのでしょうか。

「良心(善悪の分別力)です」

――良心に刻み込まれたものを、なぜ改めて啓発する必要があるのでしょうか。

「低劣な本能のせいで忘却したり誤解したりしているからです。人間がそれを思い出してくれるようにというのが神の御意志です」

――神はそうした摂理を外部から啓示する使者を派遣しておられるのでしょうか。

「もちろんです。あらゆる時代にその使命を授かった者がいます。霊性の高い霊で、人類の発達を促進する目的で地上へ降誕しています」

――そうした使者の中で模範とすべき最も完全に近い人物は誰でしょうか。

「ナザレのイエス」




――善と悪との分別は何を規準にしたらよいのでしょうか。

「善とは神の摂理に適ったものであり、悪とは神の摂理から逸脱したものです。正しい行為とは神の摂理に適ったことをすることであり、過った行為とは神の摂理を侵害することです」

――人間には自ら善悪を弁(わきま)える能力がそなわっているのでしょうか。

「その両者を弁別するための直観的判断力(良心)が授けられています」




――自分では正しいと思っても間違っていることがあります。

「イエスが言っております――“自分がしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい”と。道徳的摂理の要諦はこの言葉に尽くされております。これを行動の規準にすることです。決して間違えることはありません」





――徳行の価値の高さは、それを実行する環境の厳しさによって計られるものなのでしょうか。

「有徳の行為の価値は、実行の困難さによって決まります。克己も奮闘努力もなしに簡単に成就できるものは何の価値もありません。神は金持ちによる山ほどの供物よりも貧者による一切れのパンの方を嘉納されます。それをイエスは“寡婦の賽銭”の寓話で語っております」(新約聖書マルコ伝12



2章 祈りの法則


〈讃仰(さんごう)の祈り〉
――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。

「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」

――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。

「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」

――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。

「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」

――表現形式は不可欠のものでしょうか。

「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」

――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。

「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」


〈祈願〉
――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。

「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」



――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。

「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」


――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?

「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」



3章 仕事の法則

――働こうにも働けない人がいるのではないでしょうか。そういう人の人生はまったく無駄なのでしょうか。

「神は常に公正です。神が罰するのは意図的に無為の人生を送る者だけです。それは他人の世話になるだけの一生に終わるからです。各自がその才能に応じて意義ある存在となるように神は配剤しておられます」



4章 生殖の法則


――これまでのような割合で地球の人口が増え続ければ多くなり過ぎるのではないでしょうか。

「そういう心配はいりません。神の配剤によって常に均衡が保たれるようになっています。神は何事につけても無駄は許しません。人間の視野には宇宙の全パノラマのほんの一部しか入りません。それゆえ全体にハーモニーが行き届いていることは知覚できません」



5章 自己保存の法則

――しかし、必ずしも人類の全てが必要物を十分に得ているとは言えません。なぜでしょうか。

「それは素晴らしい母なる大地を粗末にして感謝の念を忘れているからです。さらに、人間は自分の技術の未熟さや先見の明の無さを棚に上げて自然界の不毛のせいにしています。人間が“足れるを知る”生き方に徹すれば、生きるために必要なものは大地が必ず与えてくれます。必要なものが十分に手に入らないのは、必要の限度を超えたものを要求しているからです。

砂漠のアラブ人をご覧なさい。あの不毛の土地においてさえ生きるに必要なものはちゃんと手に入っています。余計な人工的文化生活を取り入れないからです。文明国の人間は他愛もない欲望を満たすために地球の産物の半分を無駄にしながら、少しの天候不順で欲しいものが手に入らなくなると困った困ったと不満をかこちます。なぜそういう時のために、節約して備えないのでしょうか。くり返します――自然が供給しないのではありません。人間がその恵みの使用を賢明に規制しないからです」


――この豊かな物質文明の中にありながら、生計を立てる手段が得られない人がいますが、どこに間違いがあるのでしょうか。

「利己主義がそういう結果を生んでいることがあります。が、最も多いのは、本人の意欲が不足している場合です。イエスは“求めよ、さらば見出さん”と言いましたが、これは地面に目を注いで欲しいものを探し歩きなさいと言っているのではありません。必要なものを真剣に、そして忍耐強く求め、障害に遭遇しても落胆しないことです。そうした障害は往々にして志操の堅固さ、忍耐力、そして決意のほどを試す手段として霊団側が用意することがあります」



――しかし、意志は強固でも、置かれた環境の中ではどうしても生計手段が得られない人もいるのではないでしょうか。

「そういうケースはあります。しかしそうした環境は再生に先立ってあらかじめ自分で選んで覚悟を決めていた試練です。いくら知恵をしぼっても苦境から脱し切れない時は、神の意志に全てをゆだねる覚悟にこそ、その人間の究極の偉さが生きてきます。このまま進むと死に至ると覚悟した時は、慌てず騒がず、いよいよ肉体の束縛から解放される時が来たことを喜び、自暴自棄に陥ることは折角の悟りを台なしにしてしまうことになることを知るべきです」




――自発的な罪障消滅を目的とした窮乏生活は神の目から見ていかがでしょうか。

「人のために役立つことをする――この心掛けでの平凡な日常生活の方が、自ら求めて窮乏生活をするよりも立派です」


――人間は地上生活での苦難を通じて向上しているのであれば、自らに苦行を課することによって向上することも有り得るのではないでしょうか。

「人間の霊性を高める苦難は自然の成り行きで遭遇するものに限られます。神が用意したものだからです。人間が自らの考えで自らに課したものは、結果的に人のために役立つことに寄与しないかぎり無意味です。

考えてもご覧なさい。超人的な苦行をするヨガの行者やイスラム教の托鉢僧、ヒンズー教の苦行者、さらにはどこかの宗教の狂信者たちは、それによって一体どれだけ霊性が向上したというのでしょう? そんなことをしている暇があったら、なぜ地上の貧しい同胞のために慈悲を施さないのでしょうか。着るものにも事欠く人に衣類を与え、喪の悲しみの中にある人に慰めの言葉を与え、食べるものにも事欠く人のために自分のものを分けてあげ、そのために自分は断食もあえてする――そういう生活こそ有意義であり、神の意志に適っております。自分のためだけに修行をする者は一種の利己主義者です。他人のために自分が苦しんでこそ慈悲の法則を実践したことになります。それがイエスの教えです」



――戦争における殺人行為にも責任を負わされるのでしょうか。

「命令によって戦わされている以上は責任は問われません。が、戦争によく見られる残虐行為には責任が問われ、人道的行為にはそれなりの報いがあります」




――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。

「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それが出来た時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」




――施しをすることはいけないことでしょうか。

「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」



――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。

「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」

――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。

「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」



――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。

「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」

――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。

「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことの出来ない場にさらされたとしても、青天白日の気持で誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス



パウロ「宇宙の至高の存在すなわち神と一体となることこそ人間生活の目的です。その目的達成のためには次の三つの要素が必要です。知識と愛と正義です。当然これに対立するものにも三つあります。無知と憎しみと不正です。」






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1章 神とは

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