2010年8月23日月曜日

知恵の樹











 著書名 知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか
 著者 ウンベルト・マトゥラーナ
    フランシスコ・バレーラ
 出版社 朝日出版社
 発表年 1987年

画像
 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

マトゥラーナ・ウンベルト
1928年チリ生まれ。医学、生物学を修め、バレーラとともに生物の組織化の神経システムを機能的に解明。同じ機能が人間社会のシステムにも働くことを考察した
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バレーラ・フランシスコ
1946年チリ生まれ。認識と意識の生物学的・サイバネティクス的基礎について師であるマトゥラーナと研究。応用数学でも数々の業績がある。2001年没


管 啓次郎
1958年生まれ。ニューメキシコ大学比較文学科にて修士号取得。明治大学理工学部教授
 

 購入日 小平図書館 2010年7月
 きっかけ
 目的
 目標 
 
 著者の目標
 「もしぼくらがきみに、きみ自身のことを、これらの現象を見るのと同じように[他の人々との共=存在において生成されたものと]して見る気にさせることができたのなら、この本は第一目標を達成したといっていい。」

 →読者に本書が示した新しい見方でものを見る気になってほしい。

 ぼくらはただ他の人々と共に生起させる世界だけをもつのであり、それを生起させることを助けてくれるのは愛だけだ、ということだ。
 この反省的思考へと、きみを連れてくることができたのなら、この本は第二の目標を達成したということになるだろう。

 ぼくらが今日直面しているさまざまな困難な核心には、まさにこの「知ること」についての無知そのものがあるのだ、とぼくらは主張する。

 人を強制するのは、知識(認識)ではなく、知識についての認識(知識)だ。
 「爆弾は殺す」という知識ではなく、「爆弾によってぼくらは何をしたいのか」がぼくらにそれを使うかどうかを、決めさせる。ふつうぼくらはそれ(認識についてのリカーシヴな認識)を無視したり否定したりして、毎日のアクションにかかりきりになるために、責任を回避する。

目次
第1章 “いかにして知るのか”を知る
第2章 “生きていること”の組織
第3章 歴史―生殖と遺伝
第4章 メタ細胞体の生活
第5章 生物のナチュラル・ドリフト
第6章 “行動域”
第7章 神経システムと認識
第8章 “社会”現象
第9章 “言語域”と人間の意識
第10章 知恵の樹

第1章 “いかにして知るのか”を知る

 確信への誘惑

 「さあ、私の言うことを聞いて。私が語ることに、まちがいはないのだから!」

 ぼくらは確信の世界、けっして疑われることのない堅固な知覚の世界の中に住むという、傾向がある。

 「知ること」(認識)はすべて「知る人」によるアクションなのだ、ということに気づくことが、僕らの出発点だ。

第2章 “生きていること”の組織

 ある存在が「生きていること」をどうやって知るのだろう?

 ☆生命の定義とは?

 あるなにかの「なりたち」、あるいは組織とはいったいなんなのだろう?

 生物は絶えず自己を産出しつづけるということによって特徴づけられる。

 生物とは、オートポイエーシス(自己創出)組織である。

  メタボリズム(物質交代) ダイナミクス 境界(膜)

 生命とは自律的な単体である。

 自律性(オートノミー)

 組織と構造

 単体は識別行為から生起させられる。


第3章 歴史―生殖と遺伝

第4章 メタ細胞体の生活

 再現的(リカレント)

 カップリング(連結)

第5章 生物のナチュラル・ドリフト
第6章 “行動域”

・有機体の一部としての神経システムは、それ自身の構造的決定によって作動するものである。

したがって環境の構造は、神経システムの変化を特定することはできず、ただ変化を始動させることができるだけだ。

☆プロパガンダ、洗脳、教育などによって特定の行動を起こさせることも可能。

理想と現実。自由と倫理という理想や愛でなく、功利すなわち言われたとおりにしないと損をする、恐怖と不安でコントロール。多くの宗教が死後の世界に天国へ行くという利益と、言うとおりにしないと地獄へ行くという恐怖でコントロールしている。

 本当の愛。みかえりをもとめない利他的行為。いつくしみ、いとおいし

仏教のお経、神話は、人々の行動を促す小説。

 ☆自分の行為が、たとえ特定の行動を起こさせることができなくても、誰かの考えるきっかけとなれば素晴らしい。


 言われたことには、それを言った誰かがいる。
  観察者の位置と視点を常におさえておく

第7章 神経システムと認識

・生きることとは、知ることなのだ

第8章 “社会”現象


・ある社会的単体のメンバー間に相互的にひきおこされた調整行動のことを、ぼくらはコミュニケーションと呼ぶ。
 

 利他行動と利己行動

  グループにおいて個体が組織のために行動する、

  そこに矛盾はない。

 それは「利他的に」利己的なのであり、

 「利己的に」利他的なのだ。

第9章 “言語域”と人間の意識
第10章 知恵の樹

 伝統とは、見たり行動したりする仕方であるだけではなく、またひとつの隠蔽の仕方でもある。

 伝統とは、あきらかで規則的で、受入れられるものになった、すべての行動(ふるまい)からなっている。

 それらの行動が実行されるためには反省的思考(=反映)は必要とされないので、それらは失敗しない限り眼に見えないものだ。〈伝統〉をなす行動が失敗したときに、はじめて反省的思考が登場する。


 ・認識の認識については強制する。

 アダムとイヴが善悪を教える知恵の樹の実を食べたとき、ふたりはもうけっして原初の無垢(無知)な状態には戻ることのできない別の存在に変わってしまったのだと、聖書は語っている。
 その実を食べる以前は、「知ること」そのものを知らなかったが、事件以後、「知ってしまったこと」を知ってしまった。

 生物学的現象としての認識について科学的研究をさしだしながら、君にあの樹の実を食べることをすすめた。

 認識の推論のラインを追い、その結果を飲みほすとき、ぼくらはあの実を食べることは避けられない事件だったことがわかる。認識についての認識は、強制するのだ。

 それは確実さ(確信)の誘惑にたいしてつねに警戒的な態度をとるように、ぼくらを強制する。

 みんなが見ている世界は、唯一の世界なのではなく、ぼくらがほかの人々と共に生起させているひとつの世界でしかないのだと、はっきりと理解することを強制する。

 世界とは、ただぼくらが異なった生き方をするときにのみ異なったものとなるのだということわかるようにと、ぼくらを強制する。

 なぜそれがぼくらに強制することになるかというと、自分たちが「知っている」ということを知るそのときから、ぼくらにはもはや「知っている」ということを(自分自身に対してであれ他人に対してであれ)否定することができなくなるからだ。

 「認識の認識」は、回避することのできない倫理規範(エシックス)である。

 意識の基準点 反省的思考 

 ぼくらの世界とは、必然的に他の人々と共に生起させる世界にほかならない。

 他人と共存したいと思うなら、誰かにとっての確実さ(確信、信仰、考え方)は―それがぼくらにはいかに望ましくないものに見えようとも―ぼくら自身の確実さとおなじく有効なものだということを理解しなくてはならない。

 異なる確実さを持つものが共に存在するには、より広いパースペクティヴ、両者が一致して共通の世界を生起させることができるような存在領域を、選ぶことだ。

 争う者たちが「確信」を持っているとき、争いは、生じた場所ではけっして解決されえない。
争いは、ただぼくらが、共=存在が生じるようなもうひとつの場所へと移動したときにのみ、消滅する。
この認識を認識することが、人間を中心にすえたエシックスのための社会的命令(規則)となるのだ。

 ぼくらはお説教をしているのでも、愛を説いてまわっているのでもない。
ただ、生物学的に言って、愛がなければ、つまり他者への受容がなければ、社会という現象は生じないという事実をあきらかにしているだけだ。

 他者を受入れない、そんな生き方をみんなで続けるなら、ぼくらは名ばかりの愛のもとに、無関心と否定をいきているにすぎない。




コメント

 ・生きることとは、知ること。知ろうとしないこと、無関心は、生きようとしていないのか?



 ・認識の認識については強制する。・・・考えることを強制する

 考えること、それは自由であり、責任ある行為。

 もし、自分で考えず命令されるがまま無責任な行動をし、
その結果について、なにも思わず、考えず、無関心でいたなら、
問題を見出せず、反省することもないだろう。


 無関心で、興味をもたせず、考えさせず、行動させない。

これが望む結果なら、かなり現在うまくいっている。

だれが望んでいるのだろう?


 新しい適応を広める。きれいな音楽が人の心を動かすように、素敵な想い、考え、行為が人々に伝わり、広がり、新しい世界が広がっていくことを確信します。

 心の闇から明るい光の世界に呼び戻すために

闇を照らす、光となるために

ゲームという自分だけ殻に閉じこもっている人を解放するために

 


リンク

・自己組織化

・パラドックス

オートポイエーシス

・反省的思考(リフレクション)とは、ぼくらが「いかにして知るのか」を知るプロセスのことだ。それは自分の盲目性を見出し、他人の確信や知識(認識)にしたところで、ぼくら自身と同じくらい、困った、頼りないものだと認識するための、唯一の機会なのだ。




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