2010年8月20日金曜日

シルバーバーチは語る











 著書名 シルバーバーチは語る
 著者 A.W.オースティン(編) 近藤 千雄(訳)
 出版社 スピリチュアリズム・サークル「心の道場」
 発表年 2000年訳 1938年

画像
 著者略歴

 購入日 ネットで見れます
 きっかけ 「神との対話」批判より
 目的 三大霊訓を知る
 目標 心の目を開き、魂の感動を得る

目次

巻頭言

 本書は霊の世界の祝福を受けて物質の世界へ届けられるものです。願わくば今本書を手にされたあなたが、これを読まれることによって心の目を開き、魂に感動を覚えられんことを祈ります。生命の物的諸相の背後にある、より高い、より深い、より尊い、そしてより雄大な側面に気づくまでは、その人は暗い霧の中で生きていることになるのです。

シルバーバーチ



編集者ノート

 ここに集められたシルバーバーチの教えは――シルバーバーチ自身はこれは自分の教えではなく、自分の所属界よりさらに高い界層から送られたものを自分が中継しているに過ぎないと言うのだが――全てを知り尽くした存在による、絶対に誤ることのない言葉として披露するものではない。

 そもそも霊的交信なるものの目的は人間の批判的能力を殺(そ)いで盲目的に受け入れることではない。また、新しい宗教をこしらえたいという願望から行うものでもない。霊的啓示というのは固定されたものではなく、常に進歩的で、受け入れる人間の側の能力一つに掛かっているからである。

 さて、シルバーバーチは常に人間の理性に訴えることを主義としている。従ってもしもその言説の中に読者の理性が納得しかねるものがあれば遠慮なく拒否するか、さらなる証明が得られるまで留保すればよい。

 読者の便宜を考慮して私は、各章に掲げたテーマに関して、数多くの交霊会での霊言から適切なものを拾って編纂した。と言うことは、各章が一つの交霊会(の速記録)をそっくり文章におこしたわけではなく、三十回ないし四十回の交霊会でのシルバーバーチの霊言からの抜粋で構成されていることを承知されたい。

 当然その構成に当たっては思想の流れに一貫性をもたせることに意を用いたが、さらに読み易さを考慮して文字を通常のローマン体と肉太のボールド体と斜体のイタリック体の三種類に使い分けた。

一九三八年三月   A・W・オースティン



序文 ハンネン・スワッファー

 シルバーバーチの哲学の基本的概念は、いわゆる汎神論である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則として全てを支配している。要するに神とはその法則(摂理)なのである。それをシルバーバーチは「あなた方は大霊の中に存在し、また大霊はあなた方の中に存在します」と表現する。と言うことは、われわれ人間も潜在的にはミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部としての不可欠の存在を有しているということになる。

 もっともシルバーバーチは理屈をこね回すだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をするためにこの地上へ来ているのだということを繰り返し説き、宗教とは「人のために自分を役立てること」と単純明快に定義する。そして、お粗末とは言えわれわれは、今この地上にあって、戦争に終止符をうち、飢餓を食い止め、神の恩寵が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための、霊の道具であることを力説する。

 「われわれが忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の摂理です」――これがシルバーバーチの終始一貫して変わらぬ基本姿勢である。

1章 シルバーバーチの使命
2章 交霊会の目的
3章 地球浄化の大事業
4章 明日の世界
5章 絶対的摂理の存在
6章 ヒーリングの問題
7章 神とは何か
8章 祈りの効用
9章 キリスト教のどこが間違っているのか
10章 人工的教義と霊的真理
11章 進化の土壌としての地上生活
12章 死後の世界
13章 霊界通信の難しさ
14章 交霊会の舞台裏
15章 交霊会についての誤解
16章 睡眠中は何をしているのか
17章 スピリチュアリズムの第一線で働く人々への励ましのメッセージ
18章 霊界側から見た戦争
19章 再生(生まれ変わり)
20章 青年牧師との論争
21章 霊界でも祝うクリスマスとイースター
22章 シルバーバーチ、子供と語る
23章 さまざまな疑問に答える
シルバーバーチの祈り


 私たちは、特定の者のみを可愛がり、憤怒に燃えて報復したり、疫病をまき散らしたりする神に代わって、慈しみと叡智の始源としての大霊の概念を説くことに努め、そしてそれはある程度まで成功しました。またナザレのイエスを(唯一の神の子としてではなく)偉大なる人間の模範として崇めるべきであると説いてきました。そうした私たちの教えの基本となっている根拠を理解してくださる人も多くなりました。

 確かに大きな成果を上げることが出来ましたが、これから為さねばならない、もっと大切な仕事があります。人間は今もって、やらなくてもよい戦をやりたがります。私たちが説く真理を理解し実生活に生かせば、殺し合うなどということは、いの一番に止めるはずです。

 飢餓もあります。大霊は十分な恵みを与えてくださっています。なのに、新鮮な空気も太陽の光も入らない粗末なあばら家で生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人がいます。不足と悲嘆と苦痛が多すぎます。

 廃絶すべき迷信がまだまだ数多く存在します。心を痛めている人が多すぎます。根絶すべき病気があります。私たちの仕事はまだまだ終わっていません。

 私たちはこれまでの成果を喜ぶと同時に、あなた方サークルの協力を得て、さらに多くのサービスが成し遂げられるための力を授かりたいと祈っております。

 私はこの地上へ私を派遣した霊団の代弁者(マウスピース)に過ぎず、私という一個の存在としての栄誉とか報賞を求める気持はみじんもありません。誇大に宣伝したり地上時代の偉そうな人物名を名乗ったりする趣味も持ち合わせません。私はただこれまで申し上げたような霊的真理、長い間忘れ去られていた真理に改めて“神の真理”のシールを張って、こうして地上界へお届けするための道具であることに喜びを感じているのです。




 人間はなぜ戦争をするのでしょうか。それについてあなた方はどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのか、その原因は何だと思いますか。なぜ人間の世界に悲しみが絶えないのでしょうか。

 その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である大霊が宿っていることが理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の大霊が支配しているということです。ところが人間は何かにつけて“差別”をつけようとします。そこから混乱が生じ、不幸が生まれ、そして破壊へと向かうのです。

 前にも申した通り私たちは、あなた方が“野蛮人”と呼んでいるインディアンですが、あなた方文明人が忘れてしまった大霊の摂理を説くために戻ってまいりました。あなた方文明人は物質界にしか通用しない組織の上に人生を築こうと努力してきました。言い変えれば、大霊の摂理から遠くはずれた文明を築かんがために教育し、修養し、努力してきたということです。

 人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。古い時代の文明が破滅してしまったように、現代の物質文明は完全に破滅状態に陥っています。その瓦礫を一つ一つ拾い上げて、束の間の繁栄でなく、永遠の霊的摂理の上に今一度築き直す、そのお手伝いをするために私たちは戻ってきたのです。それは私たち霊界の者と同じく物質に包まれた人間にも、大霊の愛という同じ血が流れているからにほかなりません。



 私たちはよく誤解されます。同志と思っていた者がいつしか敵にまわることがしばしばあります。しかし、だからといって仕事の手をゆるめるわけには行きません。大霊の目から見ていちばん正しいことを行っているが故に、地上に存在しないエネルギーの全てを結集して、その遂行に当たります。徐々にではあっても必ずや善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真が偽を暴いていきます。時には物質界の力にわれわれ霊界の力が圧倒され後じさりさせられることがあります。しかし、それも一時のことです。

 われわれはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人類を救い出し、もっと高尚で、もっと気の利いた生き方を教えてあげたい、お互いがお互いのために生きられるようにしてあげたい、そうすることによって魂と霊と精神を豊かにし、この世的な平和や幸福ではなく、霊的に高尚で価値あるものを得させてあげたい、そう願っているのです。

 それは大変な仕事ではあります。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なるものです。どうか、父なる大霊の力が一歩でも地上の子等に近づけるように、ともに手を取り合って、大霊の摂理の普及を阻もうとする勢力を駆逐して行こうではありませんか。

こうして語っている私のささやかな言葉が少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然、それを知らずにいるあなた方以外の人々にも、私がこうして語っているように語り継がれて行くべきです。自分が手にした真理を次の人へ伝えてあげる――それが真理を知った者の義務です。それが摂理なのだと私は理解しております。



 私はいつでも真理を説く用意ができております。地上の人間がその本来の姿で生きて行くには、大霊の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえた方がいいはずです。居眠りをしているよりは目覚めているほうがいいはずです。皆さんとともに、そういった居眠りをしている魂を目覚めさせ、大霊の摂理に耳を傾けさせてあげるべく努力しようではありませんか。それが大霊と一体となった生き方への唯一絶対の道だからです。

 そうした生き方ができれば身も心も安らぎを覚えることでしょう。大宇宙のリズムと一体となり、不和も対立も消えてしまうでしょう。それを境に、それまでとは全く違った、新しい生活が始まります。

 知識は全て大切です。これだけ知っていれば十分だ、などと思ってはいけません。私の方では知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できる限り吸収するよう努めていただきたい。こんなことを申し上げるのは決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他の人々に授けてあげることこそ、私にとっての奉仕の道だと心得ているからにほかなりません。

 知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇って行くのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろう、と階段のどこかで腰を下ろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収して行くほかに道はありません。

 このことは物質的なことに限りません。霊的なことについても同じことが言えます。と言うのは、あなた方は身体は物質界にあっても、実質的には常に霊的世界で生活しているのです。従って物的援助と同時に霊的援助、すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところをよく認識してください。あなた方も実質的には霊的世界に生きている――物質はホンの束の間の映像に過ぎない――これが私たちからのメッセージの根幹をなすものです。


 人間を真の意味で自由にし、大霊から授かった資質を有り難く思わせてくれるメッセージ、あらゆる拘束物や束縛を振り棄てる方法を教えてくれるメッセージ、霊的知識を十分に満喫させてくれるメッセージ、物質界だけでなく死後の世界にも通用する生き方を教えてくれるメッセージ、美と愛と叡智と理解力と真実と幸せをもたらしてくれるメッセージ、そして人のためというサービスの精神を説くメッセージ――私たちは、こうした、形容する用語を超越した素晴らしいメッセージを、地上という物質界へお届けしているところです。

 なのに私たちは、大霊の啓示が理解できない人たちによる拒絶に遭っております。彼らは、いつの時代にもそうであったように、霊というものの存在を否定します。


 しょせん価値あるものは苦難と悲哀なくしては成就できないのです。教訓にはそれなりの入手方法というものがあることを知らないといけません。私たちは物質界の全側面に突破口を開こうと努力しているところです。私たちのメッセージが各分野の人々の心を明るく照らし、霊の光が広がるにつれて唯物主義の暗黒が消散して行きます。

 これまでに得たもので満足してはいけません。良い意味での“不満”は、さらなる進歩への欲求の表れであり、その不満がより大きな知識を呼び込むのです。手にしたものにあぐらをかく者は活力を失います。満足できない者がより大きな自由を求めて苦闘するのです。

「理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです」――私はそんなことは申しません。反対に「神が与えてくださったもの(知的思考力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。しっかり吟味なさってください。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください」と申し上げます。


 たった一個の魂を高揚してあげることができたら、喪の悲しみに沈んでいる一個の魂に慰めを与えることができたら、意気地のない一個の魂に生きる勇気を与えてあげることができたら、人生に疲れ切った一個の魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分にやり甲斐のある仕事をしたことになるのではないでしょうか。

 その一方には、私たちがお届けするメッセージに困惑する人、何らかの古い教義に縛られているために逃れようにも逃れられずに戸惑っている人、それでいて自由の呼び声が聞こえて必死にもがいている人が大勢いることも思い起こしてください。

 私たちのメッセージはそういう人たちも念頭に置いているのです。それまでは考えも及ばなかった真理があることを知って、それが魂にとって大きな刺激となるのです。いかなる真理も次の真理への踏み石にすぎないのです。


 私たちの教えが地上界に広まるということは民族間の離反の終わりを意味します。国家間のバリア(障壁)の消滅を意味します。民族の差別、階級の差別、肌色の区別、さらにはチャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴーグ等の区別もなくなります。何となれば、それぞれに大霊の真理を宿しており、他の宗教の真髄は自分の信じる宗教の大切なものといささかも矛盾しないことを悟るようになるからです。 


地上の人間は相変わらず流血によって問題が解決するかに考えているようですが、歴史をご覧になればお分かりのように、流血の手段で問題が解決した例しはありません。流血の行為はムダ以外の何ものでもなく、解決をもたらすことはありません。

 人間はなぜ大霊が与えた理性を使わないのでしょうか。なぜ唯一の解決法ができるだけ多くの相手を殺すことだと考え、最も多くの敵を殺した者を英雄として讃えるのでしょうか。地上というところは不思議な世界です。

 あなた方の世界は私たちの世界からのメッセージを必要としております。霊からのメッセージ、即ち霊的真理の理解が必要なのです。霊的摂理というものが存在すること、そして自分自身の内部と外部とから導きがあり、困難に遭遇した時に慰安と導きと援助をどこから求めるべきかを知る必要があります。

 私たちは私自身への見返りを何一つ求めておりません。何かの恵みが欲しくてこの仕事に携わっているわけではありません。皆さんのお役に立ちたい――具体的に言えば、人類が忘れてしまっている霊的摂理を改めて啓示してあげ、物質界にも存在する霊力を再発見し新たな希望と新たな生命を呼び覚ますことになればと願っているのです。

 古い規範が捨て去られ、あらゆる権威が疑念をもって見直され、その威力が衰えつつある今こそ、絶対に働きを止めずまた誤ることもない摂理として顕現している大霊を絶対最高の権威として啓示せんとしているところです。その大霊の摂理にのっとった生き方をしさえすれば、地上界に再び平和と調和が訪れます。

 それが私たちの使命の全てというわけではありません。見捨てられた古い信仰の瓦礫の中にあって人間が単なる疑念や不信から全てを拒否することなく、本物と偽物、事実と神話とを選り分け、真に価値あるもの、全ての宗教の内奥に秘められたもの、物質界の人間による想像物の下敷きとなってしまっている霊的真理を我がものとすることが出来るようにするための大規模な仕事の一環であることを知ってください。

 その昔、霊覚者たちを鼓舞し洞察力と勇気、奉仕への熱誠と願望を与えた霊力は、今日でも我がものとすることが出来るのです。物質界の人々でも、霊的摂理の働きの中にそれを見出す努力を怠らなければ、必ずや我がものとすることが出来ます。

 教会・聖典・教義――こうしたものは今や衰微の一途をたどっております。少しずつ廃棄されて行きつつあります。しかし、霊的真理の権威だけは永遠に変わることはありません。私がこうして地上界へ戻ってきた時に必ず目にするのは混乱と無秩序ですが、鮮明な霊の光――隙間からもれる僅かな光ではなく全てを照らす強力な光――が降りそそぐようになれば、そうしたものは立ちどころに消えてしまいます。

 そういう光が得られるというのに、なぜ人間は暗闇を好むのでしょう? 知識が得られるというのに、なぜ無知のままでいたがるのでしょう? 叡智が得られるというのに、なぜ迷信にしがみつこうとするのでしょう? 生きた霊の真理が得られるのに、なぜ教義という生命のない骨を好むのでしょう? 霊的叡智の水が得られるというのに、なぜ神学という濁った水を好むのでしょう。

 そうやって自ら選んだ暗闇の中で、自由になれるのにクサリにつながれ、奴隷のような生き方をしている魂が数多くいるのですが、私が案じているのは、そういう束縛の生活にあまりに長く慣れてしまうと、その束縛から解き放たれるのが怖くなってしまうことです。鳥カゴの中で長いこと飼われている小鳥は、その鳥カゴから放たれた時に、もしかしたら飛べないのではないかと心配になるものです。

 ですから、束縛から解き放してあげるのは結構なことですが、自由になった時に歩むべき道も用意してあげないといけないのです。何の道標もない場所へ放り出されて、進むべき方向も分からないままの状態に放置してはいけないのです。自由になってもらわなければいけませんが、同時にその自由が導いてくれる道も教えてあげなくてはならないのです。

 人間というのは、長いこと束縛の状態に置かれたあとで自由にされると、その自由がうれしくて誰のアドバイスにも耳を傾けようとしなくなるものです。

 「イヤ、もう結構です。これまでさんざん懐疑と困惑を味わってきて、今ようやく脱け出たところです。宗教というものにはもうこれ以上係わりたくありません」

 そう言って拒否するのです。一種の反動です。


 私たち霊団の使命は誰かを権威ある地位に祭り上げることではありません。真理を啓示し、知識を広め、叡智を授けることです。私が史上に名高い人物であろうと無名の人物であろうと、それが何の関係があるというのでしょう。私たちが訴えるのは名前や権威ではなく、理性、これのみです。

 人間の知性が反発を覚えるようなことは何も要求いたしません。あなた方の理性に照らして真実とは思えないようなこと、人間としての品位にもとること、卑劣なこと、人類を侮辱するようなことは説いていないつもりです。人類全体を高揚し、宇宙の生命機構の中における人間の存在価値についての正しい概念を大霊との関係で啓示し、地球全体としての霊的一体関係についての理解を得させてあげたいと願っているところです。

 私たちは、すぐに聖典の文句を持ち出したり教祖の言葉や権威に頼るようなお座なりのことは致しません。神から授かっている理性を頼りとして、これに訴えます。私たちがお届けする真理は“聖”の文字を冠した書物の言葉を引用することで広められる性質のものではありません。理性に照らして納得が行かなければ、どうぞ拒否してくださって結構です。

 しかし、すでに皆さんには私たちが最高にして最善の人間的本能に訴えていること、私たちが求めているのは古い時代からの間違った概念を払い除けて、これなら人間も大事にしてくれるであろうと思われる真理をお届けしていることが分かっていただけているものと信じます。“宗教”と呼ばれているものは“真理”を土台としなくてはいけません。理性による攻撃を受けて脆くも崩れるような土台は、むしろ崩れてしまった方がよろしい。

 私は、そのような真理――人間がせっかく手にしながらいつしか見失うということを繰り返してきた真理――を改めて啓示し、物質界の最も重要な位置に据えてあげるべく努力している、一個の道具に過ぎません。

 私たち霊団は、今度こそは唯物主義と利己主義の勢力がはびこらないという確信がもてるように努力しております。そのためには人間みずからがその勢力に負けないようにならなくてはいけません。それは、その邪悪な念が住みつかないようにするために、日常生活のすみずみにわたって霊的真理の光で油断なく見張るしかありません。


 私たち霊団は決してあなた方人間本来の義務を肩代わりしようとする者ではありません。なるほど神の御心があなた方を通して働いていることを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。

 私が時おり残念に思うのは、人のための行為に条件をつける人がいることです。例えばこんなことを言う人がいます――「もちろん食べるものに事欠いている人に施しをしますよ。しかしその前に大霊に祈っていただかないとね」と。なぜ大霊に祈るか祈らないかにまで干渉するのでしょうか。お腹を空かしている人には食べるものを施してあげればそれだけで良いのではないのでしょうか。

 また、寝る場所もない人に「どうぞウチで寝ていってください」と言ってあげるのは結構なことですが、「しかし、ちゃんとお祈りをしてくださいよ」などと付け加える人もいます。

 人生の法則の一つに「物心両面の均衡をはかる」というのがありますが、その知識を手にされている皆さんは、自分みずから均衡をはかったことがおありでしょうか

 スピリチュアリズムを知ったということは地上では推し量ることが出来ないものを手にしたことになります。大霊の真理についての貴重な知識を手にしたことになります。ご自分の魂が大霊の魂とつながっていることを悟られたのです。即ち、ご自分が大霊の一部であることを知ったということです。その上、霊界から派遣されている背後霊団のバイブレーションにいかにして反応すべきかを学ばれたわけです。

 それほどのものに比べれば、物的なものは、いかに高価なものであっても、まったくチャチなものです。今は物質界にいる皆さんも、これから霊の世界で計り知れない歳月を生き続けるのです。そのことを思えば、この交霊会を通じて得た知識や叡智は、この地上で物的身体のために一生懸命に求めるものより遥かに貴重なはずです。


 地上界には大きく分けて三つの問題があります。一つは“無知”、もう一つは“悲しみ”、そして三つ目が“貧しさ”です。この三つは、政治に霊的知識が生かされ、人々もその知識の指し示す通りに生きるようにならないかぎり、地上からなくなることはないでしょう。

 しかし、勝利へ向けての波のうねりは止まりません。古い秩序が死滅し、新しい秩序と入れ替わります。新しい世界は着実に到来しつつあります。しかし、新しい世界になったからといって暗い面が完全に消え去ると思ってはいけません。涙を流すこともあるでしょう。心を痛めることもあるでしょう。犠牲を強いられる局面も生じることでしょう。

 大霊に係わった仕事は犠牲なくしては成就されません。新しいものを建てるには古いものを壊さないといけません。物的な惨事が続く時代になると人間は霊的なものの基盤を疑い、改めて吟味しはじめるものです。物的な手段がすべて失敗に終わった時、ワラをも掴む思いで、それまで試みられてきた制度を吟味し、そこに頼れるものがないことを知ります。

 そこに至ってようやく霊的真理の出番となり、新しい世界の構築が始まります。大霊の摂理が正しく運用される世界です。そこへ至るまでには大きな混乱は避けられません。もっとも、いつの時代にも何の混乱も生じない世界にはなりません。なぜなら、完全に近づくとその先にもっと次元の高い完全性が存在することを知るからです。


――霊界側がスピリチュアリズムの普及を望んでおられるのなら、もっと新聞などを使った宣伝をなさるとよいのではないでしょうか。

 これは、これは、驚きました。あなたは霊的知識の普及がどういうものかよくご存じないようですね。知識が普及するということは結構なことです。しかし宣伝効果となると、また話は別です。魂が真理に目覚めて感動するには、それぞれに時機というものがあるのです。

 私たちは私たちなりの手段を講じています。計画はきちんと出来あがっているのです。あとはあなた方の世界からの協力が必要なのです。

 私たちは魔法の杖で一気に悟らせることはしないことを知っておいてください。魔法の処方箋があるわけではありません。宇宙の自然法則を啓示してあげようとしているだけです。

 私たちのメッセージを聞いて魂が感動し、自分を通じて大霊が働くことが可能であることを理解してくださることを望んでいるのです。霊界からの普及活動が休止することはありません。ただ、それは地上界の騒々しい宣伝によって行われるのではなく、魂と心に訴え、霊との一体関係を緊密にすることによって成就されるのです。

――霊的プランがあるということを何度も聞かされているのですが、見たところその影響はどこにも見当らないようですが……

 それはあなたが物的視点からのみ見ているからです。あなた個人の短い人生を尺度として見ておられるから進展がないかに見えるのであって、私たちは別の次元から見ていますから進展が見えるのです。霊的知識が広まり、霊的なものへの理解が深まり、寛容的精神が高まり、善意が増え、無知と迷信と不安と霊的束縛による障壁が崩れて行きつつあるのが見て取れます。

 突如として革命が起きるかに想像してはいけません。そういうものは決して起きません。霊的成長と進歩はゆっくりと進められるものです。絶望する必要もありません。確かに物的文化のすさまじい発達を見ていると絶望感を抱きたくなるかも知れませんが、他方ではその唯物主義の霧を貫いて霊的真理の光が射し込みつつあります。知識が広がり続けるかぎり霊的真理の勝利は間違いありません。

 現在の地上人類にとって霊界からのメッセージが大切なのはそのためです。私たちにとって大切なのではありません。あなたたち人間にとって大切なのです。私たちはあなたたちのため、つまり今までの生き方を続けていては痛い思いの中でその代償を支払わねばならなくなる――無知、度を超えた利己主義、故意の残虐行為への代償を支払うことになることをお教えしたいのです。あなたたちをこのまま見て見ぬふりをするわけには行かないのです。

 私たちは、人類を破滅に追いやろうと企む邪霊集団ではありません。人間を罪深い存在に貶(おとし)めたり、残忍なことや罪深い行為を唆(そその)かしたりするようなことは致しません。その反対です。内部に宿している大霊と同じ神性と霊力を自覚させ、それをサービスの法則にのっとって活用させ、大霊の計画の推進に一役買っていただきたいと思っているのです。



〔人類が霊的法則に目覚め、その指し示す方向へ忠実に生きるようになった時の世界はどういう世界であろうか。新しい世界は一人の独裁者、一つの政府、あるいは国際連盟のような組織によってコントロールされる性質のものでないことは明らかである。人間各個による努力の結果として誕生するものであろう。その時の喜びがいかなるものであるか、それをシルバーバーチに語ってもらおう〕



 地球人類は今まさに危機の真っ只中にあります。何事につけ誕生には苦しみが伴うものです。新しい秩序の誕生にも大きな苦しみが伴います。その誕生が近づくにつれて苦痛も増大してまいります。

 しかし間違いなく言えることは、その新しい世界の種子がすでに地上界に根づいているということです。既得権力の座に安住している者たちがいかなる策を弄しても、それは功を奏さないでしょう。イエスは「天に為される如く地にも為されるであろう」と二千年前に述べております。それがもうすぐ実現しようとしています。

 これからも地上には幾つもの大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあるでしょう。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかも知れません。「大変な時代になった……」そうおっしゃるかも知れません。しかし、そうした変動の背後には地上世界へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。

 こうして地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、これから先の地上はこうなるという未来像を見せていただいております。それを受け入れる能力のある地上の同志に伝え、挫けがちな心を鼓舞しております。私が見せていただいた未来像に比べると現在の地上世界がとても醜く見えます。が、私には地上世界はこれほどまで立派になり得るのだ、こうならねばならないのだということが分かっております。あとは“時間”の問題です。それを早めるのも遅らせるのも人類の自覚一つに掛かっております。

 そのうち、政治も宗教も科学も学問もある一つのものの側面に過ぎないことが理解できる、新しい人類が現れるでしょう。その人類にとっては痛みも心配も喪の悲しみも不幸もなく、笑顔と明るい笑い声の世界となるでしょう。が、現段階の不幸に満ちた地上世界で最も人徳があるとされる人間は、他人の悲しみを取り除き生活を楽にしてあげられる人です。それほど不幸な人が多いということです。

 これまでの人間は、何か良いものを手に入れると、それを人のために使用せずに独り占めにしようと画策し、結果的には、いずれ崩壊するに決まっているような社会組織を構築しようとしてきました。なぜなら、その基盤が間違っているからです。

 大霊からいただいた資質を発達させ、それを人のために役立てる方向で使用するようになれば、永遠なるものを基盤とした社会組織が構築されるでしょう。

 私たちが説いていることは決して新しいものではありません。霊的な視野をもつ人々がずっと説き続けている古くからある真理です。それを大方の人間が顧(かえり)みようとしなかっただけです。そこで私たちが改めて説き、大霊の摂理というものがあることを指摘する必要が生じたのです。人類は自らの間違った考えによって地上界を破滅の寸前にまで追いやっております。

 今こそ人類は大霊とその摂理へ回帰しなくてはいけません。イヤ、すでに回帰しつつあります。私の目には、ゆっくりとではありますが、大霊の摂理が地上界に具現しつつあるのが見えます。

 何よりもまず人類が知らなくてはならないのは、大霊の恩寵はみんなで分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には今日の食べものに事欠く人がいる一方で、有り余るほど貯えている人がいます。もちろんこれは間違っています。余るほど持っている人は足らない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……

 また既得権を取り壊す必要があります。摂理は寸分の狂いもなく働きます。あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです。あなた方だけではありません。人間の全てに言えることです。それは無理ですとおっしゃるかも知れませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての正しい生き方だからです。摂理は完ぺきで、ごまかすことは出来ません。その摂理を一つでも多く学び、それを実行に移さなくてはいけません。

 長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。その結果として生じた暗闇に、今ゆっくりと大霊の光が射し込みつつあり、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。そこには最早や持つ者と持たざる者といった不平等も不公平も差別もなく、大霊からの賜(たまもの)が全ての子等に平等に分け与えられるようになることでしょう。

 その新しい世界をどのような用語で呼んでも構いません。要するに大霊の意思に適った世界の成就――大霊の霊力はもとより、新しいタイプの喜び、新しいタイプの人生、新しいタイプの幸せを求める誠心誠意の人間の貢献によって、これ以上霊界へ“出来損ない”(死後に地縛霊となってしまうような人間)を送り込まなくなるような世界のことです。

 時としてその誠心誠意の努力が無駄に終わっているような感じを抱かれることがあるかも知れません。しかし、そういう時でも、世界中のあらゆる所で、あらゆる人々が、自覚するしないに関係なく、新しい世界の夜明けのために活用されているのです。大霊は我が子が破滅の道へ向かうのを黙って見ているわけには行かないのです。私があなた方に援助をお願いするのはそのためです。そうした努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません。とにかくそうした働きかけは絶え間なく続けられています。地上界と霊界の協力です。もはやそれをストップさせることは不可能です。

 そうした一体の努力で私たちが物質界の到るところで大きな仕事を成就していることを誇りに思っております。悲しみに暮れていた心が明るくなっております。地上の暗闇に光が射し込んでおります。知識が無知を、まだ僅かではありますが、駆逐しております。生きる意欲を失った人々を勇気づけ、人生に疲れた人々に力を与え、道を見失っている人々に導きを与え、同胞のためにボランティア的に働いている人々には援助を与えると同時に、その背後には、大霊とその子等のための仕事を鼓舞する霊の大軍が控えているとの自覚を植えつけようとしております。


 また私がうれしく思うのは、皆さんが愛しまた皆さんを愛している霊界の人々をこのサークルにお連れして、その人たちが決してこの宇宙から消えてなくなったわけではないこと、死によって愛と情愛と友愛で結ばれている人々が引き裂かれるどころか相変わらず結ばれ続けていることを、これまで以上に確信させてあげることが出来ていることです。

 私たちの影響力がどれほど広範囲に広がっているかをお見せできないのが残念です。地上界と霊界とのこうした結びつきを邪魔している障害を取り壊し、障害物を取り除き、そして知識をもたらすことが出来ております。人類を霊的に、精神的に、そして身体的にも自由にする、至って単純な真理です。ご存じのように私たちはただお役に立てば、それだけで満足なのです。無償の献身を通してのみ、地球人類は救われるのです。サービスです。

 ここで改めて申し上げておきたいのは、私がただの道具に過ぎないということです。真理、単純な霊的真理、あなた方人間も全生命の源である大霊の一部であるとの認識を植えつけてあげたいと望んでいる大きな霊団の一人に過ぎないということです。大霊はあなた方の内部にあるのです。神性という遺産を引き継いでおり、その潜在的神性が宿されているからこそ大霊の恩寵にあずかる資格があるということ、さらに、それ故にこそその神性を妨げる障害物や慣習を廃絶しなければならないのです。私たちの仕事は魂と精神の自由だけを目的としているのではありません。物的身体も病という束縛から解放してあげることが目的の一つです。

 そういう仕事に私たちは献身してきたのです。それが私たちのいうサービスです。私はあくまでも道具の一つに過ぎませんが、私を通して人類に役立つ真理が届けられることを光栄に思っております。皆さんとともにその仕事に携わってきて何年かになりますが、これからもまだまだ続きます。地上界の皆さんと霊界の私たちの連帯によって、今こそ地球人類が必要としているものをお届けしてまいります。あなた方はすでに知識をお持ちです。霊的真理を手にされています。そして、そうした霊的知識には、それをさらに価値あることのために使用する義務が伴うことを忘れないでください。

 あなた方の説く真理が疑いを差しはさまれた時は、それには神性のスタンプが押されていること、そして又、その理由は私たちが常に人間の理性に訴えていることを思い出してください。言い変えれば、私たちがお届けするメッセージが、あなた方の品位を落とさせたり知性を侮辱したり、サービスと善性と誠実さの道に背を向けさせるような要素はみじんもないということです。それどころか、人間に内在する神性を認識させ、大霊とのつながりを自覚させることによって、その神性があなた方の日常の行為の全てを律するようにと願っているのです。

 霊的真理を常に意識している人たちが一致団結して、物質界に立ち込めている無知の霧を晴らすためにその力を使用すれば、どれほど大きな仕事が出来ることでしょう。善性と有用性とサービスの勢力は常にあなた方の味方であることを自覚して、自信をもって前進してください。

 我々の前途にはサービスの分野がいくらでも広がっております。多くの人がお座なりの説教を捨て、古い信仰を信じず、理性的懐疑に耐え得る真理を求めながらも、いずこへ向かえばそれが得られるか、迷いに迷っております。そういう人々にこそ霊的真理と霊的摂理をお届けするのです。内部に宿る霊的資質に気づかせ、自分も神であるということはどういうことなのかを理解させ、憎悪の復讐心に燃える神の前にひれ伏すような卑屈な信仰心を永久に捨て去るように指導してあげることです。

 要するに私たちは、大霊の子等のために役立ちたいと願う地上の有志との協調関係を求めている霊的勢力の存在を認識していただき、霊的真理を武器として迷信の全て、暗黒の霧の全てと闘い、霊的真理の光で地上界を照らしていただきたいのです。それが私たちの仕事なのです。私たち地球浄化の大軍には霊力という武器があります。地上界の有志を鼓舞し、導き、心の支えとなり、飢えた魂に心の糧を与え、病に苦しむ人々に癒しを与え、全ての人にインスピレーションと啓示と叡智をもたらすことが出来ます。

 人間の側に理解力と受容力がそなわれば、その能力に応じて霊力で満たしてあげることが出来ます。教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、そうしたラベルにはお構いなく、受け入れる能力のそなわった人を一人でも多く見出して協力者に仕立てて行く用意があります。







 私たちは大霊が定めた摂理をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば物的生活に健康と幸せをもたらすことが出来るからです。教会で説教している人たちはいつの日かその間違いをご破算にしなければなりません。いかなる人間も摂理の働きかけから逃れることはできません。牧師といえども逃れることはできません。なかんずく霊の声を聞いた者(良心の痛みを感じた者)はなおさらのことです。間違っていると知りつつ改めることの出来ない者は、知らずに犯す者より重い責任を取らされます。

 魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴した人、つまり霊的真理の啓示の恩恵に浴しながらもなお自分中心の生き方に終始している人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。知らずに犯したのではなく、知っていながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている人が大勢います。

 大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。

 病気に関しても、人間の内部にはいかなる病気でも自らの力で治す治療力と、いかなる困難をも克服する霊力をそなえているのですが、あなた方はまだそれを実感しておりません。いざという窮地において引き出せる霊力の貯蔵庫を持っているのです。神の王国は各自の内部にあるのです。そのことがまったく理解されていないのです。

 その貯蔵庫から必要なものを引き出すにはどうすればよいかと言えば、大霊の摂理にのっとった生活に徹しさえすればよいのです。しかし、果たして何人の人がそう心掛けているでしょうか。

 人生は行為だけで成り立っているのではありません。口に出して述べること、そして頭や心の中で思考することも大切な要素です。行いだけが責任を問われると思ってはいけません。確かに行いが重大な要素を占めていることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部です。よく言われるように、人間の多くは思想の主人であるより奴隷となっております。



 大霊の法則は物的なものと霊的なものの両方を支配しております。宇宙という大霊の王国にはそういう区別はないのです。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それに幾つもの側面があるに過ぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

 しかし、霊力を秘めた人間が遭遇する苦難には、いついかなるところにあっても大霊のために役立つことをしている限り克服できないものはないとの信念が確固たるものになるには、あなた方もまだ距離がありそうです。

 実は私が「人間に克服できないほどの苦難はない」と言う時、それは、因果律の原理から見て取り除かれてしかるべきものであればという意味です。そこで、もしも苦しみが余りにも耐え難いものであれば、こう理解してください。それを取り除いてあげるべく私も、向上進化の歩みを止めてでも努力してみますが、むしろそれに耐え抜き、その苦境の中で悟るべきものは何かを真剣に考える方が、より賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野に置くことです。

 物質界の人間も、物的であると同時に、神性を宿していることを理解すれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。悩み事は立ちどころに消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。ところが人間は内部に宿している霊的な力を信じません。あなた方のいう“人間味”は地上世界でのみ通用することで、内部に宿る霊力は大霊に属するものです。

 その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。が、地上人類はその意味が理解できないために、言い変えれば、死後の存続に磐石の信念が持てないために、摂理が成就されないのです。例えば金持ちをうらやみ、彼らには悩みがないかに思いがちです。悩みというものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理は金銭でごまかすことはできません。

 あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処するかによって決まります。その時に忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物的波動のレベルです。それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。

 安らぎはただ一つ、大霊と一体になった者に訪れる安らぎです。大霊のリズムで鼓動し、大霊の意志のままに行動し、魂と精神が大霊と一つになっている者にのみ訪れます。そういう時は大霊の摂理と調和しているのです。それ以外に安らぎは得られません。

 この私にできることは、その摂理がどうなっているかをお教えすることだけです。イエスは二千年も前に天国は自分の中にあると言いました。外部のどこかにあるのではないのです。ましてや混とんとした物質界には存在しません。魂の内部に見出されるのです。



 人間は本質的には霊ですから、一人の例外もなく霊的資質が内在しております。その資質が、ある人においては他の人より表に出やすい状態にある場合があります。意識的に開発する努力によってその資質――“プシケ”と呼んでも“霊能”と呼んでもよろしい――が発現し、その人間と背後で働く霊団との間の協調性が緊密になります。

 と言うことは波動の一体化の次元が高くなり、精密になり、緊密になるということです。霊的光波が一つの美しい調和状態にブレンドし、その次元が頂点に達した時に霊界の医師団と地上のヒーラーとが完全に一体化します。その完全な状態に少しでも近づくほど霊団とヒーラーとを通して使用できる治癒力の次元が高くなり、大きくなり、強力になります。(これは特に霊的治療家について述べたもので、他の治療法、例えば磁気療法などには必ずしも当てはまらない――編者)



 さらに大切なこととして、魂の琴線にふれて霊が開眼します。ほとんど光らしい光を発していなかった大霊の炎が勢いよく燃え上がり、その体験が新たな悟りをもたらすのです。



――大霊というのは「誰」なのでしょうか「何」なのでしょうか。あらゆるものに内在する愛、愛の精神ないしは情でしょうか。

大霊とは宇宙の自然法則です。全生命――物質界のものと霊界のもの全て――の背後の創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。それが全宇宙のすみずみまで行きわたっているのです。人間の知り得た限りの小さなものであろうと、まだ物質界には明かされていないものであろうと、同じです。

あらゆる生命体に大霊が充満しています。あらゆる存在に大霊が内在しています。あらゆる法則の中にも大霊が内在しています。大霊は大霊です、生命です、愛です、全てです。従僕に過ぎないわれわれが一体どうして主人を表現できましょう? ちっぽけな概念しか抱けないわれわれが、どうして広大無辺の存在を表現できましょう?



――あなたは、大霊はあらゆるものの中に存在する、全存在の根源である、愛にも憎しみにも、叡智の中にも愚かさの中にも存在する、とおっしゃっています。その論法でいくと、間違ったことをする人間も正しいことをする人間も大霊の摂理の中で行動していることになります。同じことが戦争と憎しみを煽動する者と平和と愛を唱道する者とについても言えるように思います。となると誰一人として神の摂理を犯す者はいないことになりますが、この矛盾をどう説明されますか。

 一方に「完全なるもの」があり、他方に「不完全なるもの」があります。しかし、不完全なるものもその内部に完全性の種子を宿しております。なぜなら完全性は不完全性から生じるものだからです。完全性は完全性から生まれるのではなくて不完全性から生まれるのです。

 生命の旅路は進化です。進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・拡大・拡張です。あなた方が善だとか悪だとか言っているのは、その旅路における途中の段階の高い低いの善に過ぎません。終着点ではありません。あなた方の判断はその中途の不完全な理解力によって行われているのであって、善だと言ってもその段階での善であり、悪だと言ってもその段階での悪に過ぎません。その段階での判断に過ぎません。その時の事情との関連で判断した結果であって、その事情から離れればまた別の判断をするかも知れません。しかし、いかなる事情にも大霊が宿っているということです。



――大霊はこの宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

そうではありません。宇宙は大霊の物的反映に過ぎません。大霊は物的宇宙と霊的宇宙にまたがる全体の統一原理です。

ハエに地球が理解できるでしょうか。魚に小鳥の生活が分かるでしょうか。犬が人間のように理性を働かせることが出来るでしょうか。星に空全体が分かるでしょうか。人間的知性を遥かに超えた大霊があなた方に理解できるでしょうか。

それはできないに決まっています。でも、口に一言も発することなく、皆さんの魂の静寂の中で霊が大霊と交わることが出来るまでに霊性を磨くことは可能です。その瞬間には皆さんと大霊とが一つであることを実感します。それがどういうものであるかは人間の言語では説明できませんが、自分の魂と森羅万象とが一つであることを静寂の中で悟ります。



――霊が自我を発現するための物的媒体にもいろいろな形態があるということでしょうか。

その通りです。摂理は完ぺきなのです。が、あなたを通して顕現している摂理は、あなたが不完全であるがゆえに不完全なのです。完ぺきな摂理はあなたを通して顕現できません。しかし、あなたが完全へ向けて進化するにつれて、大霊の摂理がより多くあなたを通して働くようになるのです。

鏡と光の譬えで説明しましょう。鏡は光を反射するものですが、鏡が粗悪であれば光の全てを反射することが出来ません。鏡を磨くことによってより多くの光が反射するようになります。

全存在が絶え間なくより一層の顕現を求めて努力しているのです。すでに申し上げたと思いますが、生命(霊)とは黄金のようなものです。つまりその本来の姿を現すまでには原鉱を砕き、手間を掛けて磨き上げなくてはなりません。「原鉱はいらない、黄金だけくれ」――こんな要求は通りません。


――祈るということは大切でしょうか。

その祈りがどういうものであるかによって答えが異なります。決まり文句のただの繰り返しでは空気に振動を起こすだけです。が、魂の奥底からの誠心誠意の祈り、大霊との交わりを深め、大霊の道具としてより有用な存在となりたいとの願望から出た祈りは、その祈りそのものが霊性を強化し、大霊の道具としてより相応しい存在にします。その種の祈りは自我を顕現せんとする行為であり、心を開く行為であり、私たち霊側との結束を固めることにもなります。



――おっしゃるのは、祈りが生み出す結果は主観的なものだけで客観的なものは生み出さないということでしょうか。人間性を高めることはあっても具体的なものは生み出さないのでしょうか。

祈りの本質は、人のためのサービスという行為へ向けて魂を整えることです。より高度なエネルギーと調和するための手段です。誰かが作文した祈りの文句を意味も分からずに繰り返すのではなく、全身全霊をこめて可能なかぎり高い次元の波動に合わせようとする行為のことです。それに呼応して注ぎ込まれるインスピレーションに満たされて霊性が強まります。



 祈りの言葉はたった一言しかありません。「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」――これです。「大霊のため、そして大霊の子等のために一身を捧げたい」――この願いより崇高なもの、これ以上の愛、これに勝る宗教、これより深い哲学はありません。どのような形でもよろしい。大霊の摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、飢えに苦しむ人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い心を明るく晴らしてあげることでもよろしい。人のために役立ちさえすれば、形式はどうでもいいのです。

 自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

 そんなことよりも、生きる意欲を失くしている人のところへ出かけて行って元気づけてあげ、疲れた人に眠る場を与え、飢えに苦しむ人の空腹を満たしてあげ、渇いた人の喉を潤してあげ、暗闇に閉ざされた人の心に明るい真理の光を灯してあげることです。そうしたことを実行している時、あなたを通して大霊の摂理が働いていることになるのです。



 宗教的信条ないしは教条は、地上界のいわゆる夾雑物の一つです。これは見方によっては疫病や伝染病よりも性質が悪く、身体的な病よりも危険です。なぜなら、それが「魂の病」を生み出しかねないからです。霊性が目隠しをされてしまうのです。

 なのに地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、教条にしがみつきます。もっとも、中には教条に縛られている方が気楽だと考える人もいます。しょせん「自由な人」とは、自由であることの本当の有り難さを知った人のことです。ここにおいでの皆さんは教条の奴隷の状態から脱したことを喜ぶべきです。喜ぶと同時に、今なお奴隷状態にある人を一人でも解放してあげるべく努力してください。

 私たち霊団の者は皆さんにいかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら大霊の愛の実在を説くだけです。それが、大霊の子等を通して発現すべく、その機会を求めているからです。そのためには、いかなる書物にもいかなるドグマにも縛られてはいけません。いかなるリーダーにもいかなる権威にも、またいかなる巻物にもいかなる教義にも縛られてはなりません。

 いかなる聖遺物を崇めてもいけません。ただひたすら大霊の摂理に従うように心がけるベきです。摂理こそが宇宙で最も大切なものだからです。宇宙の最高の権威は大霊の摂理です。

 教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。

 それよりも、大霊が用意してくださった太陽の光が子等の心を明るく照らし、大霊が注いでくださる雨が作物を実らせることの方が、よほど喜ばれます。ところが、残念なことにその大霊の恩寵と子等との間に、とかく教会が、政治家が、そして金融業者が介入します。こうしたものを何としても取り除かねばなりませんし、現に今まさに取り除かれつつあります。
霊力を過去のものとして考えるのは止めにしないといけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は今なお働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力は悪魔の力であるとして取り合いませんでしたが、今日の聖職者たちもスピリチュアリズムでいう霊力を同じ理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩したようです。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。




 誠に残念なことですが、「神の使徒」をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには一から学び直してもらわねばならないことが沢山あります。彼らは何の根拠もない基盤の上に神学体系を築き上げました。まさに「砂上の楼閣」です。それがスピリチュアリズムの真理の攻撃にあって危うく崩れそうになるのを必死に支えようとしているのです。

 そもそも土台が間違っているのです。イエスなる人物を作り話で取り囲んでいるに過ぎません。そうすることでイエスをゴッドと同じ位の座に祭り上げたのですが、その根拠に何の正当性もありませんから、その非を指摘されると、理論的にはそれを撤回せざるを得ません。しかし、いよいよ撤回するとなると、内心、大きな恐怖心に襲われるのです。



 キリスト教に私が我慢ならないのは、説くチャンスはいくらでもありながら、本当の事実を信者に明かそうとしないからです。

 また私が我慢ならないのは、本来はその代弁者たらんとしているはずのナザレのイエスを裏切るようなことばかりしていることです。

 さらに許せないのは、そのイエスを神の座に祭り上げて、物質界の子等の手の届かない存在としてしまっていることです。これではイエスが意図した人間としての生き方の模範ではなくなってしまうからです。

 本当なら教会の入り口には「我等が忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我等は信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれております。教会はまるで真理に敵対するための手段となっております。

 決して私は、聖職者になって神に仕えたいと真摯に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることは私もよく知っております。私が非難しているのは「組織」です。真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、霊力という活力溢れるエネルギーの入る余地をなくしている、硬直した教会の体質です。

 そんな教会にどうして霊力が受け入れられましょう? そこには「立入禁止区域」というものが設定されているのです。

 私たちは宇宙の大霊と自然法則の存在を説きます。その法則の働きの証をお見せする道具のようなものです。そしてナザレのイエスの本来の人となりをお教えして、イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間も大霊から授かった霊力を発揮しさえすればイエスと同じ生き方が可能ですと申し上げているのです。

 信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう? 宗教とは霊性に関わるものです。全ての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと現象となって顕現している霊性、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞している霊性、それが一個の教義と何の関わりがあるのでしょうか。



 地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にしすぎております。真理と年代とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去ることが容易でないことは私もよく承知しております。しかし、魂が真に自由になるには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることが出来るようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊界からの生きたエネルギーに直に接することを知らないが故に、地上界はどれほど霊性を失ったことでしょう。迷信や無知の壁を切り崩さんとする私たちの努力は、これから先、一体どこまで続けなければならないのでしょう?

 もっとも、あなた方が想像するほど長くは掛からないでしょう。周りを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至る所に見られます。堅牢を誇った見栄の象徴の砦が、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち皆さんの真理の雄叫びが、それを完全に突き崩してしまうことでしょう。



――でも、イエスの教えに従おうと心掛けることで立派になった人物もいるのではないでしょうか。

 ナザレのイエスを本当に見習うようになった時、その時から人類の歴史はまったく新しい時代を画することになるでしょう。今までの所まだそこまでは至っておりません。少なくとも私にはその兆しが見えないのです。帰依すると公言しているイエスその人を裏切るような生活を送っている人たちのことを、この私の前で「クリスチャン」と呼ぶのは止めてください。イエス自身こう述べているではありませんか――「私に向かって主よ、主よ、と呼びかける者の全てが天国に召されるわけではない。天にまします父の意志を実践する者が召されるのである」と。



――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも無数にいると思うのですが……

 そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。いわばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず足枷になるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教国では教義の名のもとに殺し合いと火刑が行われてきました。魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません。



 地上界では「宗教に帰れ」という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り、何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをすることです。同胞の重荷を軽くしてあげることです。それが宗教です。



 忘れないでいただきたいのは、そうした地上界も「神の王国」の一つになり得るということです。平穏と豊かさに満ちた「神の国」に変えるための潜在力が秘められているのです。ただ現状は、利己主義という名の雑草が生い茂り、その潜在力が発現を妨げられています。

 そこで私たちは皆さん方に奉仕というものを要求するのです。自分を捨て、我欲を捨て、地上的なものよりも天上的なものを優先させ、お一人お一人が大霊のメッセンジャーとなっていただきたいのです。お一人お一人が改革の責務を担い、生活に明るさと生きる喜びと笑い声に溢れさせ、無知と迷信を駆逐して代わって霊的知識を普及させ、暗闇の中で生きている人々に霊的真理の光明をもたらし、恐怖心も喪の悲しみも病気も知らない、愛に包まれた生活の場としていただきたいのです。


 ナザレのイエスはそんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるベきか、内部の神性をいかにすれば発現できるかを教えるために地上界へ降りたのです。

キリスト教神学はまさしく物質界にとって「呪い」です。人類にとって大きな手枷・足枷となります。魂を牢に閉じこめてしまいます。それから逃れる道は、霊的啓示を学ぶことによって人工的教義と信条の愚かさに目覚めることです。有限の人間的精神が無限なる大霊の啓示をしのぐことは絶対にありません。




最後にイエスの言葉を引用して終わりとさせてください――「自分が蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない」



 真理というものは、童子のような心になりきって古い概念から生じた誤った信仰を捨て去ってしまえば、実に簡単に理解できるものです。言い換えれば、新しい教義や信条をこしらえるというのではなく、正しいことは正しいこととし、それを否定することでいかなる犠牲を強いられることになろうと、それを幼子のような素直な心で受け入れる態度で臨めば、容易に理解できるものです。

 いかなる宗教であろうと、何らかの教義に忠誠を誓った人たちが必ずしも真理を理解する上で有利な立場にあるとは言えません。なぜなら魂というものは、信仰を誓った時の忠誠心と、そこに満足を得たいと希(ねが)う心との間の葛藤に悩み苦しむことがあるものだからです。

 私は皆さんに、二千年前にイエスが説いた真理と、今地上界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較して、イエスの教えがいかに単純であるかに着目していただきたいのです。

 私たちも単純なメッセージをお届けしています。理性にもとらず、知性を侮辱することもないメッセージです。それは自然の結果として、私たちが当初から主張しているもの、即ち簡単な霊的真理であることの証拠にほかなりません。

 その中でも第一に申し上げているのは、地上界の人たちがいちばん願っていること、即ち他界した縁ある人々が今も生き続けていること、言い換えれば生命に「死」というものは存在しないという事実です。

 次に申し上げているのは、霊力は(二千年前だけでなく)今もなお人類の高揚のために献身している人々を鼓舞しているという事実です。霊力の働きが人生を生き甲斐あるものに、そして調和の取れたものにする上で「豊かさ」をもたらしてくれているのです。

 さらに私たちは霊的治療エネルギーによって、病魔と闘っている人々の苦しみと痛みを和らげてあげています。こうして私たちは地上の人々に互いに助け合う生活の送り方をお教えする意図のもとに結集した、神の使徒なのです。



――そうすると地震による死者は地球の進化の犠牲者ということになります。公正と言えるでしょうか。

死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、その辺が私には理解できません。私に言わせれば魂にとって大いなる自由を獲得する機会です。



――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。なぜでしょうか。

 価値あること、成就するに値するものほど、達成するのが難しいものです。楽には達成させてくれません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

 それもこれも、人間形成の一環なのです。それらにどう対処するかによって魂の成長が決まります。魂の奥に潜在する最高のものが簡単に引き出せるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

 ですから、とにかく挫けないことです。内在する霊的資質を活用して克服できないほど大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に用意する邪魔も、内在する力を発揮して立ち向かえば、必ずや消滅します。あなた方は地上生活において本来の自分のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。



 実は、あなた方は今でも毎夜のように霊の世界を訪れているのですよ。ただ思い出せないだけです。この体験は、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあることを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識でもって見ることができます。その時すべての記憶が蘇ります。


――シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

 特に愛着を感じ慕っている人物には、大抵の場合、会うことが出来るでしょう。「共感の絆」が両者を引き寄せるのです。



――どうすれば霊媒や霊視能力者になれるのでしょうか。

 大霊のために自分を役立てようとする人間はみな大霊の霊媒です。いかにして魂を向上させるか――これはもう改めて説くまでもないでしょう。これまで何回となく繰り返して説いてきたことではないでしょうか。

 自分を愛するごとく隣人を愛することです。人のために役立つことをすることです。自我を高めるよう努力することです。何でもよろしい、内部に宿る神性を発揮させることです。それが最高の霊媒現象なのです。こうすれば霊視能力者になれるという方法はありません。が、大霊の光が見えるように魂の目を開く方法なら教えられます。それは今述べた通りです。




 一九三七年にグラスゴ-(スコットランド)で開かれた国際スピリチュアリスト連盟の総会において、特別に催された交霊会で各国の代表に次のようなメッセージを送った。


『この度世界中からの代表を一堂に集結させたのは、他ならぬ霊的真理の価値の重大性です。皆さんは互いに語り合い、新たな力と新たな勇気を見出し、新たな理解と希望を携えて、それぞれの母国へ帰って行かれます。

 地上界も最早や霊の声に知らぬふりをしていられなくなりました。人類は今まさに重大な岐路に立たされており、いずれを選ぶかの選択を迫られております。
 
 キリスト教は人類を完全に裏切りました。最早や破産状態にあります。科学者も裏切りました。建設どころか破壊することばかりしております。思想家も裏切りました。ただの空理空論に終始しております。政治家も裏切りました。滅私の精神を通してのみ平和が訪れるものであるとの教えが今もって理解できておりません。そうした絶望的状態の中で、遂に大霊の子は真実を求めて絶叫したのです。

 そこで私たちは、ここに集まられた皆さんには大いなる信頼が託されていることを改めて認識していただきたいのです。あなた方に背負わされた責任の大きさです。この宇宙で裏切ることのないものは大霊のみです。大霊の霊力を頼りとし、大霊の叡智に導かれ、大霊の愛に支えられている限り、いかなる難問に遭遇しても必ずや解決策を見出すことが出来ます。真の自我、本来の自我、より大きな自我が、自分一人の栄光を求めずに人のために役立ちたいとの願望に燃えるからです。

 地上界は争いごとと敵意と不和に満ちあふれております。それでいて一人一人は「平和を!平和を!」と叫び続けています。そうした中で皆さんにお願いしたいのは、内部に無限の可能性、即ち大霊の力が秘められているという事実を改めて自覚することです。あなた方一人一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が皆さんの内部に秘められているのです。それを呼び覚まし顕現しさえすれば、前途に横たわるいかなる制約も打ち砕いてしまいます。

 その秘められた大霊の賜物を思い切って花開かせるのです。皆さんの一人一人が自由に使用できる無限の霊力を秘めた、大霊そのものであることを自覚するのです。そうすれば今ようやく夜明けを迎えんとしている漆黒の地上世界の道具として活躍することができます。

 人間を頼りにしてはいけません。いかに地位の高い人であっても頼りにしてはいけません。地上界のその向こうへ目をやってください。人類のためを思って待ちかまえている霊達からのインスピレーションに耳を澄ませてください。

 前向きの姿勢を忘れないことです。これからも失敗と落胆は決して少なくはないでしょう。しかし、そうした時に忘れてならないのは、背後には霊団が控えていて、困難に遭遇した時には元気づけ、疲れた時には希望と力を与え、落胆している時には魂を鼓舞してくれるということです。見放されることは絶対にないということです。大霊の使者が応援してくれます。

 皆さんの中には遠い他国にまで足を運ばれる方もいらっしゃるようですが、霊力が手薄になることは決してありません。人のためという一念に燃えて活動するかぎり、霊力は常に皆さんと共にあり、必要に応じて顕現してくれます。

 皆さんのお一人お一人に大霊の祝福のあらんことを。そして、その大霊の愛が皆さんをあたたかく包んで下さっていることに気づかれんことを祈ります。地上界の苦難と試練と混乱に目を奪われることなく、それを達観して、大霊のシンボルである太陽へ目を向けられんことを。

心に愛を、頭に知識を、そして魂に犠牲的精神を満たしてください。そうすれば大霊の意志があなた方を通して顕現し、心が大霊の心と調和して鼓動し、文字どおり大霊と一体となることでしょう。大霊の祝福のあらんことを』


 他人の物的生命に終止符を打つ行為は、大霊の摂理に悖ります。殺意を抱いた時、理性が去ります。人間には大霊が宿っておりますが、身体的進化の途上で通過した動物的段階の名残も宿しています。人間の向上進化というのは取りも直さずその動物性を抑え大霊(神性)を発揮できるようになることです。

 動物性の跋扈を許しそれに引きずられることになった時は、戦争や紛争、殺人事件などが頻発します。大霊の心が顕現して互いに助け合う風潮になれば、平和と調和が生まれ、生きるための糧も必要な分だけ行き渡ります。

 国家とか民族とかで差別してはいけません。いずれの国家も民族も大霊の一部なのです。みな大霊の目から見れば兄弟であり姉妹なのです。こうした私たちの教えは単純で子供騙しのように思えるかもしれませんが、やはり真実です。大霊の摂理を基盤としているからです。摂理を無視して地上界を築こうとしても、混乱と騒動が起きるばかりで、最後は全てが破綻します。

 よほどの犠牲的努力が為されない限り地上界はこれからも戦争が絶えないでしょう。人類はそうなるタネを蒔いて来ており、蒔いたタネは人類自らの手で刈り取らねばなりません。原因と結果の法則は絶対にごまかせないのです。物的欲望のタネを蒔いておいて、その結果を免れようとしても、それは許されません。

 愛が欲しければ愛のタネを蒔くことです。平和が欲しければ平和のタネを蒔くことです。至るところに奉仕のタネを蒔けば、地上世界は奉仕の精神に溢れることでしょう。大霊の真理はこのように至って単純なのです。あまりに単純過ぎるために却って地上の「お偉い方々」にはその重大性がお分かりにならないのです



――その魂の自由はどうすれば得られるのでしょうか。

 完全な自由というものは得られません。自由の度合は魂の成長度に呼応するものだからです。知識にも真理にも叡智にも成長にも「限界」というものがないと悟れば、それだけ自由の度合が大きくなったことになります。心の中で間違いだと気づいたもの、理性が拒否するもの、知性が反発するものを潔く捨てることが出来れば、それだけ多くの自由を獲得したことになります。新しい光に照らして間違いであることが分かったものを恐れることなく捨てることが出来たら、それだけ自由になったことになります。それがお出来になる方が果たして何人いることでしょう?



――経済的な事情からそれが叶えられない人もいるのではないでしょうか。

 それは違います。経済的事情は物的身体を束縛することはあっても、魂まで束縛することは出来ません。束縛しているのは経済的事情ではなくて、その人自身の精神です。その束縛から解放されるための叡智は、受け入れる用意さえあれば、いつでも得られるようになっております。しかし、それを手に入れるための旅は自分一人で出かけるしかないのです。

 果てしない旅となることを覚悟しなければなりません。恐怖や危険にさらされることも覚悟しなければなりません。道なき道を一人分け入ることになることも覚悟しなければなりません。しかも真理の導くところならどこへでもついて行き、間違っていることは、それがいかに古くから大事にされてきているものであっても、潔く拒絶する用意が出来ていなければなりません。



――国際連盟(現在の「国際連合」の前身)は支持すべきでしょうか。

 加盟国の代表は本当に平和を希求しているのでしょうか。心の底から、魂の奥底から平和を望んでいるのでしょうか。永遠の原理に素直に従うだけの覚悟が出来ているでしょうか。もしかして自国への脅威となるものを阻止しようとしているだけではないでしょうか。地球と人類全体のためではなく、我が国家と我が民族の富と安全を第一に考えているのではないでしょうか。

 たちは大霊と摂理、そしてその摂理の作用を永遠の規範として皆さんに説いているところです。それ以外にないからです。その場しのぎの手段でも一時的には効果があるかも知れませんが、邪悪な手段からは邪悪なものしか生まれません。

 そのうち地上人類も愛こそが邪悪に勝つことを悟る日がまいります。全ての問題を愛の精神で解決するようになれば地上界は平和になります。愛の摂理にもとる欲望は分裂と混沌と破綻を生み出します。その根を正さないといけません。他のいかなる手段をもってしても永遠の平和は訪れません。




牧師「改訳聖書をどう思われますか。欽定訳聖書と比べてどちらが良いと思われますか」

「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理はバイブルだけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々は、どんな地位の人であろうと誰であろうと、またどこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそがいちばん立派なバイブルです」




牧師「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう? 例えば後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらヘお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことが逐一わかります。逃してしまったチャンスが幾つもあったことを知って後悔するわけです」



牧師「この世にはなぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練をへて初めて人間世界を支配している神の摂理が理解できるのです」




メンバーの一人が「現行の制度は不公平であるように思います」と言うとシルバーバーチが

「地上での出来事はいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかは自分で天秤を手にして、バランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることは出来ません。罰が軽くて済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の内部を見抜く力がないからそう思えるのです。

私が常に念頭においているのは、大霊の法則です。人間の法律は念頭にありません。人間がこしらえた法律は改めなければならなくなります。いつかは変えなければならなくなります。大霊の法則は決してその必要がありません。地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、大霊の分霊であるあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。

もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした大霊の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている大霊を、一体あなたは何の資格をもって裁かれるのでしょう」



牧師「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりの人間が死に際になって自分の非を悟り“信ぜよ、さらば救われん”の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の“回心の教義”をどう思われますか」

「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。“たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん”“まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのもの全て汝らのものとならん”これらの文句は、あなた方はよくご存じですが、果たして理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。“神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし”――これもよくご存じでしょう。

 神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の回心でいっぺんに立派な霊になれると思いますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切しなかった人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”のひとことで全ての過ちが赦されるとしたら、果たして神は公正と言えるでしょうか。いかがですか」



牧師「イエスは“善き羊飼いは羊のために命すら捨つるものなり”と言いました。私は常に“赦し”の教えを説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

「神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する――それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は罪として相変わらず残っております。いいですか、それが神、私の言う大霊の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を幾らバイブルから引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。前にも言ったことですが、バイブルに書かれている言葉をイエスが実際に言ったとは限らないのです。そのうちの多くは後世の者が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは、そう言ったと思うといった程度のものでしかありません。そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導き、あれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊力、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今も働いていることを知って欲しいのです。

あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けているのです。何も、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在(ましま)すのです。二千年前とまったく同じ大霊が今ここに在すのです。その大霊の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は決して多いとは言えません。しかし、あなた方クリスチャンは何ゆえに二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがるのです? なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです? なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです?」



牧師「キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのがいつのことか、よく分かっていないのです。ご存じでしょうか」

「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランド)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると――大抵は道路を掘り起こす仕事ですが――一生懸命はたらき、終わると僅かばかりの賃金を貰っている人たちです。その人たちが住んでいるのは、いわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうベき産物です。

ところが、同じ町にあなた方が“神の館”と呼んでいる大聖堂があります。高くそびえていますから、太陽が照ると周りの家はその影に入ります。そんなものが無かった時よりも暗くなります。これで良いと思われますか」

牧師「私はそのダーラムにいたことがあります」

「知っております。だからこそ、この話を出したのです」

牧師「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」

「あのようなことでイエスがお喜びになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、僅かばかりの賃金しか貰えない人々が存在し、他方にはお金のことには無頓着でいられる人々が存在するというのに、イエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。

あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことやバイブルのことなどに関わっていられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名のるこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンは一体何と心得ておられるのですか。

先ほど教典のことで(改訳版と欽定訳版のどっちが良いかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵をすべての子等に分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。飢え求めている生活物資を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬクリスチャンが同じようなことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があると言えるでしょうか。

私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。クリスチャンをもって任ずる者、聖職にある者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑(つむ)っているのをご覧になるからです。その日の糧にすら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て、一体誰が涼しい顔をしていられるでしょうか。

その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒に、その疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。

あなたを非難しているのではありません。私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもして上げたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そして、あなたのように社会へ足を踏み入れて間違いを改めて行くための一石を投じてくれる人物と、こうして語り合うチャンスが非常に少ないのです。

あなたに理解していただきたいことは、バイブルのテキストのことを云々するよりもっと大切なことが沢山あるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者みんなが敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているではありませんか。なのに今日なおあなた方は、それがいちばん大切であることを、なぜ信者に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。

戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業――こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

あなたは(メソジスト派の)総会から抜け出てこられました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めて来られましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱(おじょく)を拭うために一致協力しない限りそれは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」



牧師「数年前に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」

「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったらこうしてあなたと二度も議論をしに地上へ戻ってくるようなことはいたしません。あなたが有能な人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れております。しかし、イエスは社会の隅々まで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から足を運ばなくてはなりません。

 教会を光明の中心として、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなく、パンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。魂と身体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」




ポールが急に話題を変えて尋ねた――

「また戦争が起きるのでしょうか」

「小さい戦争ならいつもどこかで起きています。でも、ポールくんはそんなことを心配する必要はありません。平和のことだけを思い、その思いをその小さな胸の中から広い世界へと送り出すのです。すると世界中の人がそれに触れて平和への願いをふくらませ、それが戦争を遠くヘ押しやることになるのです」




シルバーバーチが二人の頭に手を置いて閉会の祈り(ベネディクション)を述べた。

「大霊の名において二人を祝福いたします。願わくは二人がこれからの人生の最後に至るまで、いま二人を天国にいさしめている無邪気さを失うことのなきよう祈ります。また、いま二人を取り巻いている霊力に今後とも素直に反応して大霊の良き道具となることが出来ますように」

これを聞いてルースが問う――

「天国って、どこにあるのですか」

「天国はね、人間が幸せな気持でいるときに、その人の心の中にあるのですよ」




――霊界側では避妊をどう見ているのでしょうか。

人間には自由意志と善悪を判断する道義心(良心)が与えられています。避妊の問題も最後は「動機は何か」に帰着します。「なぜ避妊するのか」――これをじっくり反芻(はんすう)してみることです。大切なのは動機です。それ以外にはありません。




――時間は実在するのでしょうか、人工の産物でしょうか。

人工の産物ではありません。時間にも幾つもの次元があります。時計で計っているのは人間がこしらえたものですが、時間そのものは実在します。空間も実在です。ただ、人間が計る時間と空間は焦点が限られているので正確ではないというまでのことです。他の要素を採り入れるようになれば焦点が実在に近づきます。







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・メソジスト







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