2010年8月31日火曜日

ミトラ教研究.近代エソテリシズム概論

ミトラ教研究.近代エソテリシズム概論1:ミトラ教と神智学・人智学

年表

近代エソテリシズムは、非常に複雑な運動である。以下に主な出来事を年表形式でまとめておいた。なお、星印は、パールシーおよびスーフィズムに関係する部分である。





表 近代エソテリシズムの歩み































































































































































































西暦



出来事



1875



・ブラヴァツキー、オールコット、ジャッジがニューヨークに神智学協会を設立する。



1877



ブラヴァツキーが米国で『ヴェールを脱いだイシス』を刊行する。


このとき、紋章の原形となる図形が完成する。



1878



・ブラヴァツキーとオールコットは、自分たちの思想(神智学)がヒンドゥー教・仏教に似ていることを知る。インドに行けば会員が増えると思い、インドの港町ボンベイに渡る。(ジャッジは米国に残る。)



1879



・ブラヴァツキーとオールコットは、機関誌『神智学徒』の発行を開始する。



~1882



ブラヴァツキーとオールコットは、1878年から1882年までの五年間、ボンベイに神智学協会を置く。会員の大半をパールシー(インド在住のゾロアスター教徒)が占める。『ゾロアスター教の神秘思想』p179



1880



・オールコットは、スリランカに旅行する。これ以降、オールコットは終生、スリランカ仏教の復興に専念する。『神秘主義への扉』p94-95



1882



・ブラヴァツキーとオールコットは、アディヤールに神智学協会の本部を移す。


・神智学協会は、仏教を担ぎ上げるようになる。


ボンベイ神智学協会の会員の大半を占めるパールシーは、これに反発する。秘教の源流がチベットかイラン(中央アジア)かの論争が起きる。



1883



・シネットが英国で『秘教的仏教』を刊行する。この本は、神智学に都合がよいように仏教を解釈したものである。『神秘主義への扉』p108



1885



・ブラヴァツキーは、オールコット、アニー・ベサント、シネットらに追放され、ヨーロッパに渡る。



1885



・ブラヴァツキーは、ロンドンに居を定める。個人機関誌『ルシファー』の発行を開始する。



1886



ジャッジが神智学協会米国部門独自の機関誌『道』の刊行を開始する。



1888



・ブラヴァツキーが英国で『シークレット・ドクトリン』を刊行する。



1889



・ミード博士、ブラヴァツキーの秘書になる。



1891



・ブラヴァツキーが英国で逝去。自分の後継者にアニー・ベサントを指名する。


・米国に残っていたジャッジは、これが不満で米国神智学協会を自分のものとし、自らがクート・フーミであると宣言する。『神秘主義への扉』p139-141



1893




オールコットは、もっぱらスリランカの仏教に関心を向け、仏教普及に専念する。


・インドの神智学協会の運営は、アニー・ベサントに任せきりになる。『神秘主義への扉』p150-152


オールコットは、ジャッジやアニー・ベサントを避け、極力関わらないようする。



1895



・米国に残っていたジャッジは、アニー・ベサントが神智学協会を指導することが不満で米国神智学協会を自分のものとし、自らがクート・フーミであると宣言する。『神秘主義への扉』p139-141



1896



ジャッジが逝去。しかし、対立は残る。



1897



・ミード博士、神智学協会を去る。



1902



シュタイナーがドイツ神智学協会の指導的立場に立つ。『神秘主義への扉』p213-214


神智学運動に対抗するかたちで、スラート(ボンベイ近郊の町)にイルミ・クシュヌーム派が誕生する。


同派は、秘教占星学を教え始める。


同派は、秘教の源流はイランであると説く。ボイス編『ゾロアスター教研究のための資料集』p136;『ゾロアスターの神秘思想』p187



1907



オールコットが逝去。


・神智学協会の主導権が、アニー・ベサントレッドベターに移る。


・アニー・ベサントとレッドベターは、仏教からヒンドゥー教に重心を移す


クリシュナムルティを弥勒と呼び、東方の星教団の組織化を始める。『神秘主義への扉』p182


シュロフがスラートとボンベイで秘教の講義を始める(一説には1910年から)。


ボンベイの神智学協会の大半を占めるパールシー(インド在住のゾロアスター教徒)に大きな影響を与える。


パールシー神智学派が神智学協会から決定的に離反する。一部は、イルミ・クシュヌーム派に合流し、残りはパールシー神智学派になる。



1908



・ロシア神智学協会の活動がロシア帝国領内で解禁される。『神秘主義への扉』p217



1909



シュタイナーが神智学協会ドイツ支部から離脱する。



1913



シュタイナー派の人々人智学協会を設立する。『神秘主義への扉』p213-214



1914


~18



・第一次世界大戦


・ロシア革命(1917)



1920



メヘル・ババが伝教を始める。急速に信者を増やす。



1922



グルジェフとウスペンスキーの影響力が強まる。


グルジェフ、ウスペンスキー、パールシー神智学派、イルミ・クシュヌーム派、メヘル・ババ教などの活動で、欧米にスーフィズムが広がる。『神秘主義への扉』p279



1923



・アメリカの神智学協会の会員だったアリス・ベイリーが、会誌上でクート・フーミ及びジュアルカルなる架空の大師からの霊界通信を発表したため、追放される。


・アリス・ベイリーは、独自の組織「秘教学院」を創立し、著作と通信教育に専念する。



1923


~28



ニコライ・レーリヒがヒマラヤ(シャンバラ)に行き、奥義を授かるとともに、火の石をもらったと主張する。『二十世紀の神秘家百科』p283-284



1924


~25



ニコライ・レーリヒが『モリヤの庭の木の葉』をロシアで刊行する。『二十世紀の神秘家百科』p277



1925



・アニー・ベサントとレッドベターの主導で、クリシュナムルティを弥勒とする東方の星教団が発足する。『神秘主義への扉』p363


シュタイナーが逝去。



1926



ニコライ&エレーナ・レーリヒがロシアにおけるシャンバラ大師の代理であることを宣言する。



1929



クリシュナムルティが、自分は弥勒ではないと言って、東方の星教団を解散し、神智学協会と断絶する。


・神智学の組織は、ほとんどすべてが崩壊あるいは離反し、インドとスリランカだけが残る。『神秘主義への扉』p372, p379



1929


~37



ニコライ・レーリヒが一連のアグニ・ヨガ関連書籍『無限』『心』『火の世界』などをロシアにて刊行する。『二十世紀の神秘家百科』p281



1933



・アニー・ベサントがシドニーで逝去。『神秘主義への扉』p373



1934



・レッドベターがシドニーで逝去。『神秘主義への扉』p374


アディヤール神智学協会は、アニー・ベサントとレッドベターの著作を基礎にして、ヒンドゥー教色の強い教義(ネオ神智学)の構築を始める(ブラヴァツキーの著作は、この協会の基本経典ではない)。これが現在のアディヤール神智学協会の実質的な始まりになる。



1937



エレーナ・レーリヒがラトビアの首都リガにて、『シークレット・ドクトリン』のロシア語版を刊行する。『ロシア語版シークレット・ドクトリン』奥付



1939


~45



・第二次世界大戦



1947



ニコライ・レーリヒが逝去。『二十世紀の神秘家百科』p274



1947



ウスペンスキーが逝去(イギリス)。『神秘主義への扉』p451



1949



グルジェフがパリにて逝去。『神秘主義への扉』p463



1955



エレーナ・レーリヒが逝去。『二十世紀の神秘家百科』p274



1960




・クルシュナムルティが西洋で導師としての名声を確立する。


・クリシュナムルティは、神智学の誤りを払拭する活動を続ける。『神秘主義への扉』p466



1969



メヘル・ババがインドで逝去。



1980



・クリシュナムルティとアディヤール神智学協会が和解する。


・神智学協会は、再びクリシュナムルティの著作を配布し、彼の公演および談話の宣伝を開始する。『神秘主義への扉』p478



1980~



欧米におけるスーフィズム理解が深まり、第二段階に入る。


欧米に、インド、イラン、トルコ、モロッコのスーフィズムが広まる。



1986



クリシュナムルティが逝去。『神秘主義への扉』p468


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