2010年1月19日火曜日

☆☆ラムサ―真・聖なる予言


ラムサ―真・聖なる予言
ラムサ
㈱角川春樹事務所
ラムサの学校 http://ramjapan.com/index.html





○神とは生きることそのものであり、この躍動する一瞬一瞬すべてなのである。

それは在るものすべてが存在し続けている姿であり、その永続性なのだ。

 人生において、あなたは審判を下されたと思うだろうか。

そんなことは断じてない。

なぜなら、もし神があなたに審判を下すとしたら、あなたは神なのだから、神は自分自身を審判していることになる!

高度な知性がどうしてそんなことをするだろうか。

○神が最も至高な形で表れたものとはいったい何だろうか?

それは思考である。

○神はただの言葉でありません。

私たち一人ひとりの内面に宿る気持ちなのです。

○地獄は、悪魔や地獄を信じる人の心の中にある。

○あなたに偉大なる真実を教えましょう。

人間は自分の同朋を支配するために、神のイメージを作り出したのです。

宗教というのは、軍隊が民族や国家を支配するのに失敗したときのためにつくりあげられたのであり、それを使って人々を抑えつけるのに恐怖という手段が用いられたのです。

どんな人間だろうと、その人から神なるものを奪ってしまえば、神を奪ってしまえば、その人間を支配しコントロールするのはわけはないのです。

○イエスは何を教えたのですか?

自分が神の子であること、そして、誰しもが神の子であるとはっきり公言しているのです。

イエスはあなたの兄弟です。

救世主ではありません。

彼は自分の内面に神を持っていた人間なのです。

イエスは、人間が人間を愛していなかったっ時代、人間がほかの人間に隷属し、愛というのがあまり高く評価されていなかった時代に、この地上に生きました。

しかし、イエスは、愛、それもすべての人に対する愛というものの模範を示したのです。

イエスは、ただ愛したのです。

それが彼の、人類に対する偉大で崇高なる贈り物でした。

○あなたは誰なのか?なぜここにいるのか?あなたの目的と運命とはいったい何なのか?

自分は自分の身体だと考えているのだろうか。

それは違う。

あなたの身体とは、あなたの真の姿である目に見えない本質を表に見せるマントにすぎない。

その真の姿とは、あなたの化身の内にある人格=自己という、感情や価値観の集合体のことだ。

○あなたはいったい誰が自分の人生をつくったと思っているのだろうか?

あなたがしてきたこと、あなたの人となり、そのあなたが体験してきたこと、すべてはあなた自身に責任がある。

無数の雄大な星を創造する力があるあなたは、自分の人生のあらゆる瞬間、すべての状況を創造してきたのだ。

どんな人間であるかは、自分で選んできているのだ。

自分の容姿も自分で創造してきた。

どういう生活をするかも、すべて自分で設計し、決めてきた。

それこそが神なる人に与えられた課題であり、特権でもあるのだ。

あなたは自分の思考を通して自分の人生をつくっている。

つまり、どう考えるかによってだ。

考えることはすべて、何かを感じさせる。

そして、自分が感じることはすべて投影されて表出し、自分の人生の状況を作り出していくのである。

考えてみるとよい。

幸福を思い描くにはほんの一瞬しかかからないが、

あなたは身体全体でよろこびを感じる。

○あなたはいったい何者なのか?

その存在の静寂の中に、考え、想像し、そして自分がなりたいと望むものなら何にでもなっていける力を持つ神―それがあなただ。

○あなたが生きているこの人生は、夢だ。

大いなる夢、言わばうわべなのだ。

それは思考と戯れている姿であり、夢見人であるあなた自身が目覚めるまで、あなたの感情をその中に拘束しておくための深遠なる現実を作り出しているのである。

○自分自身は価値ある人間であることをまず知ることだ。

あなたの真価を評価できる物差しなどない。

○よろこびとは何なのか?

よろこびとは、まったく邪魔の入らない動きの自由のことだ。

価値判断のない表現の自由だ。

恐れや罪悪感のない存在のことだ。

よろこびとは、自分が、自分自身の条件で人生を創造していることを知っている状態なのである。

在るがままでいることを許されている自己の荘厳な姿のことだ。それがよろこびなのだ。

○あなたは、ただ人生を体験するために帰ってきたのです。

あなたが「あなた」を選んだのです。

○「私の運命は何でしょうか?この人生での目的とは何でしょうか?」

そこで私は答えます。

「生きることです!」

○忘れ去れれた神性

人は自分が神なるものではないと繰り返し言われ続ければ、それが固い信念となる。人間という、心理を求めるこのか弱き存在は、何よりもまず受け容れてもらうことを願い、そのためにはどんなにばかげたことにでも耳を傾けてしまうのだ。

○自分が真実の本質であるという知識をもはや受け容れなくなったとき、人間は自分の独立性と力を投げ出し、烏合の衆の一部となった。

○知るということ

 あなたには在るものすべてを知る力がある。

なぜなら、知るべきものは全て偉大なる神の意識にあり、

神の精神がまるで心臓のように鼓動し、

それをあなたに送り込むからだ。

○覚醒するということは、「光の中にある」こと、

何かについての知識を持つことことを意味しているだけだ。

 知識を使えるようにして、自分の選んだ形でそれを応用するということだ。

○どうすれば覚醒できるだろうか?

 覚醒するためのただ一つの道とは、想念が自分の思考の過程に入るのを許し、

それを感情の中に抱いて、その体験を通してそれを智慧に昇華させることだ。

 考えること=イメージすること。

 イメージしたことを感じること。体、全体で感じること。

 感じることが体験であり、体験を表現する。

 表現されたものはは、科学、音楽、文学、芸術、智恵とも呼ばれる。

○あなたの魂はすばらしい記録器であり、あなたの化身の内で感じられたすべての感情をきわめて科学的に記録する。

 何かを感じるとき、あなたが感じているのは、想念があなたの存在のオーラに衝突し、脳を通して受け入れられて、中枢神経系を通って全身に送られ、それが身体中の細胞にある「感じ」を発生させたものなのである。

 すると魂は、将来の参考にする目的で、その感じを感情として記録する。これが記憶と呼ばれるものだ。

 記憶は視覚的な記録ではない。記憶とは感情の記録である。その画像や言葉のもたらす感情を記録するのだ。

 魂は、前進は全身で感じられた思考によって作り出される感情によって、

記憶の中からそれと似たものを探す。

 脳の理性の部分、皆が知性と呼んでいるものが、そのフィーリングを描写する言葉を選ぶのに使えるものを探すのだ。

 どんなものについての思考であっても、まず感じられるまでそれが知らされることはない。

 ある想念を知ることは、まずそれを脳の中に受け入れて感じるのを自分に許す、つまり全身でそれを体験することなのである。

 知識とは、あることを証明するのではなく、それを感情で確かめることなのだ。

 一度のそのフィーリングを自分の内にもてば、あなたは「それは知っている。その感じがある。知っている」と言えるのだ。

 あなたは自分の内にすべてのことを知る力を有している。

 知るということは難解な言葉を理解することではない。

 何かがどう考えているかは、それが発する波動、すなわち感情を通して必ずわかるものだ。

 何かを知りたいならば、必要なのは感じることだけである。

 そうすれば、あなたはいつも絶対に正しいだろう。

○受け入れることを自分に許す知識は、すべて現実となる。

思考は人生の体験をどうやってつくり出していくのだろうか?

松果体は「知識を具体化させる」チャクラである。

受け入れることを自分に許す知識は、すべて現実となる。

まずはそれは身体でレベルで起きる。

松果体が、まず最初にその想念が感情としてきろくされるよう、

電流として全身に送る役割を持つからだ。

想念が限りなきものであればあるほど、

体中を走る波動の周波数は高く、そして速くなる。

つまり、体験する「ハイの状態」、

あるいは、体中を走る感覚がより強くなるわけである。

そのフィーリングは、ある特定の波動として魂に記録される。

魂に記録されたすべての想念が、光の場の電磁部分を起動させ、

ちょうど磁石のように、

あなたの価値観や思考全体と似かよったものを何でも引き寄せてくるのである。

引き寄せられるものは、あなたの想念すべてから得られ、

体験されたのと同じフィーリングをつくり出す状況であり、

物であり、人であるのだ。

なぜだろうか?

あなたが自分の想念を三次元的な現実として体験し、

その過程で得られる最高の宝でもある叡智を手にするためにである。

○望みというのはどう具現化するのだろうか?

望みとは、それが満たされているという想念を、

物、人、あるいは体験を通して見たものにすぎない。

あなたが感じることを許した「満たされるという想念」は、

すべて、電磁場を通ってあなたの身体を離れ、

意識の流れに入っていって、

あなたが身体で体験した欲求と同じフィーリングを引き寄せてくる。

その欲求が身体の中で完全に、そして強く感じられたものであればあるほで、

それが満たされる形も完全なものとなる。

そして、望みが満たされると絶対的な確信をもって知っていればいるほど、

それが現れるのも早くなる。

絶対的な「知っている状態」というのは、

オーラの場を通して期待感を発する高い波動の想念であるため、

自分の欲求を実現するあなたの力を増幅してくれるからである。

○あなたにはあるものをすべて知る力がある。

それがもともとあなたの脳がつくり出された目的なのだ。

物質次元で物質的な身体で生きる神が、

自分で体験し、理解したいと望んだ神の側面については、

すべて三次元に形ある物を通してそれができるようにするためなのである。

あなたのすばらしいレシーバーを通して自分に知ることを許した想念は、

すべて体験する現実となる。

はじめは自分の化身の内に見えるものとして、

次にあなたの人生の状況として。

そして、望んだことは、それがどんなことであろうと、

知ることを通じてこれを一瞬のうちに自分の人生で具象化する力があなたにあるのだ。

○それは実に簡単な科学だ。

忘れないでほしい。

思考はただ存在する。

そして、光は見える。

光の波動が下げられ、電気信号となる。

電気信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて個体となる。

そして、個体の波動が下げられて、想念・観念を表すものとなるのである。

同じ真実が身体にもはたらく。

それはやはり、思考、光、受信機であり、受信するものから、

電気を受けて、個体の全身に送り、

その個体がフィーリングを通じて理解できるようにするのである。

望みを現実のものとするには、

何でも自分が望んでいることを感じるだけでいいのだ

するとその感情が父なるものに送り返され、

それが満たされるのである。

○もともと脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、

その全き「知っている状態」で受け取るように作られているが、

自分が受け取ることを許す波動だけを形だけで活動するようになっている。

言いかえれば、ほかの人間が受け容れ入れてくれる考えだけを思いめぐらし、

それを使って物事を考えるわけである。

閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。

だが、神という領域では、何も不可能なことはない、

どんなものであろおうとも、

その概念が持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。

想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。

 何であろうと、考える対象となることを許されたものは、すべて存在する。

そして、自分に考えることを許したものは、あなたは必ず体験する。

あなたの電磁場がそれをあなたのほうへ引きつけてくるからだ。

○あなたが神のすべてを知り、

神のすべてとなることを妨げているのはいったい何だろうか?

変性自我である。

なぜなら、変性自我は、神であるすべての思考を受け入れるのを拒むことによって神とのつながりを断ち切るからだ。

それが害を受けることなく、安全に安心して生きていいけるようにである。

あなたが神の息子であることを否定するからだ。

あなたは神なる存在であり、永遠を創造する力を持つ本質であるのに気づくことを許さないからなのだ。

反キリストとは、変性自我のことであり、その王国は社会意識だ。

それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、

審判であり、生存なのである。

キリストとは、自分の内にある父なる存在の力、美、愛、そして限りなき生をすべて表現している人間のことだ。自分は神なる存在であることを悟り、教義や預言や恐れを超越して、その悟りをそのまま体現して生きる人間のことなのだ。そういう人間は、社会意識を超えたところに、神という無限の力があることを知っているかである。

○心を開くということ

 自分を愛すれば愛するほど、あなたの脳は開いていく。

そうするとあなたは自分の身体以上のものになる。

あなたをひとつにしているもの自体になるのだ。

○自分のあるがままをすべてを愛することが、なぜ大事なのだろうか?

そうすると、あなたはただちに社会意識を超越するからだ。

するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを超える。

あなたは自己の命を満たすためだけに生きうるようになる。

自分の内なる声だけに耳を傾けるようになるのだ。

そして、よろこびの道だけをたどる。

その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。

戦争は、社会意識によって起こされる。防ぐには各自が自分の内なる声に従って行動すること。自分の行動に責任を持つこと。法律や命令、ルールなど自分以外のセイにしないこと。内なる声に従うとは、自分の感情に素直になること。

 しかし、自分の内なる声に従って、ゲームのように楽しんで人を殺したり、虐待する者はどうすべきだろうか?

もしかしたら人間の本性とは違って、後から教育やゲームなどで洗脳された状態なのかもしれない。

○利己的というのは、利神的なのだ。

○自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなもの具現化し、想像していく偉大なる力をあなたに与えるのである。

○覚醒をめざす人のほとんどは、それが言葉という形でやってくると思っている。

だが、もしいま感じていることを言葉で表現できるなら、

それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。

それができないなら、ただ感じているだけなら、

それこそが神髄であり、輝きであり、限りなき思考だ。

これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。

感情とヴィジョンがあるのみだ。

○思考を限定する技は、思考に言葉をつけてやることにある。

本当の師は何も説明しない。

ただ知っているだけだ。

説明するというのは、自分を限定しなければならないこと意味している。

○あなたは三つの側面、つまり精神、魂、自我でできた生物であり、それが個体という次元で自己を表現している姿である。

 覚えておくように言えば、覚えていてくれる。

 偉大になるように言えば、そうなる。

 限りなき叡智を持ちたいと望むなら、それはあなたの心を開き、偉大なる波動の思考が身体で感じられ、知っている状態が訪れるようにしてくれる。

○あるものすべてについて、どうすればもっと理解することができるだろうか?

 それを理解していると知ることだ。 

どう考え、何を語るかが、自分にどれほどの知識をもたらすかを決める。

「もっと知りたいと思う」などと言ってはいけない。

それではけっして知ることができないからだ。

そして、「もっと知るようにする」もだめだ。

「何かをするようにする」ということが、何ひとつ達成したためしはない。

「もっと知ることを求める」でもいけない。

求めていたのではけっして見つからないからだ。

こう言うことだ。

「わが存在の主=神のレベルから、いま私はこの瞬間に知るべきことをすべて知っている。そうなるように!」そして、答えを待つのである。

そのときに何を知りたいと望んでいるか気づいていてもいなくても、

「私は知っている」ということが気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。

それだけ言えば、知識はむこうからやってくる。

自分の創造性と人生を限定してしまう一番の方法は、

「わからない」と口にすることだ。

あるいは、「自分にひらめrく「知っている状態」を疑うことである。

最悪の忌まわしい言葉が「わからない」だ。忘れないでほしい。

あなたは法をつくる者であり、自分が考えること、語ることそのものが法なのだ。

「わからない」と言えば、わかることはない。

「できない」と言えば、けっしてできない。

知り得ることすべてを知る力をあなたは持っているのだ。

その知識への扉を開くのは、ただ「知っている」とというだけのことであり、

するとすぐにそれが実現してくる。

なぜなら「知る」という言葉は絶対であり、望みを絶対的なものへと変えるからである。

わたしは皆に信じてほしいなどと何ひとつ願っていない。

そうではなく、知ってほしいのだ!

覚醒するとは、知ることなのだ。

疑いもなく、信じることもなく、信仰や望みもなしにである。

 「知る」=「感じる」 すべてを知っている=すべてを感じている

何であっても、ある望みがすでに満たされていると知ることは、その望みの想念を増幅するとともに、自分のオーラを通して意識の流れの中にそれを送り込み、それが全うしたものをあなたが受け取れるよう、具現化してくれるのである。

「知っている状態」というのは真実である。

それは、与える者であり、あなたの未来でもある。

何か語るとき、それは自分の言葉どおりであることを知るのだ。

自分の欲しいものは何でも手に入れてかまわない。

自分が法を与える者であることを知り、自分の知ること、語ることはすべてそのとおりでなければならないと知ることによってそれができるのだ。

私はもう知っている。

私は絶対だ。

私は完全だ。

私は神なのだ。

私は在る。

○この世界にいるすべての人間は、餓えていようと、身体に障害があろうと、農民であろうと王であろうと、そこから何かを得るために自分の体験を選んでいるのだ。

そこから学び、その体験を十分に得てはじめて、内奥の自己ににまた別のさらに大事な叡智をもたらしてくれるほかの体験へと進んでいくのである。

 あなたが本当の師(マスター)となるとき、

限界ある意識の闇と泥沼の中へ脚を踏み入れながらも、

あなたは自分の全き存在に保つことができる。

なぜなら、

あなたは世にあふれる大衆の心を理解しているからであり、

彼らがなぜそういう状態なのかわかっているからである。

それは、あなたもそうだったことがあるからだ。

限界ある状態でいるという自由があなたは彼らに許す。

これこそが真の愛だ。

なぜなら、それが限りない叡智を持つことを学び、

互いを愛することができるただひとつの道であるのをあなたは知っているからだ。

互いを愛するとは、もちろん自分自身を愛することである。

○あなたの人生の道とは何だろうか?

それは、つねに自分のフィーリングに従うことだ。

自分の魂の内にあるフィーリングに耳を傾け、

それを体験するよう魂があなたを駆り立てる冒険に脚を踏み出すことだ。

もしあなたが耳を傾けるなら、

あなたの魂は何を体験する必要があるか教えてくれるだろう。

何かにあきたり、それをする欲求がないときは、

あなたはもうその体験を終えて、

そこから得られる叡智を手にしたということだ。

だが、もし何かをしたいというなら、

魂の内にあるその要求は、その体験をして、

そこから得られるものを手にしてなくてはならないことを意味している。

自分の内に感じる真実を生き、

それを感じている自分という存在を愛するのだ。

フィーリング=感情

フィーリングというものは、表現し、満たされなければならないことを意味している。

何かしたいというフィーリングが生じたら、その気持ちに従うのが賢明である。

そのフィーリングには、ひとつの体験があなたのために用意してあり、

人生を楽しくしてくれる壮大な深遠なる叡智へと進化していくために、

あなたは必ず正しいことをしている。

自分のフィーリングに反することをしたときに、

身体の病や、神経症や、絶望が訪れるのである。

○自分の心、自分の夢、自分の望みを追い求めることだ。

それが何であっても、魂があなたに求めることをして、

それを完結させる。

そうすれば、次の冒険へと進んでいくだろう。

あなたはけっして審判を下されることはない。

ただそれは、

自分のまわりにいる人間の審判を受け入れない限り、

ということだ。

 この人生か、あるいはこれから続く生で、欲求がなくなり、

ただ「在る」ことを望むこときがやってくる。

そのとき、

淫売や盗人や殺人者、あるいは戦争に明け暮れる国々を罵ったり、

審判を下したい気持ちがもう失せてしまうのだ。

学んだこと、聞いたこと、読んだことを、

単純明快に実践しよう。

単純であればあるほど、

あなたはもっと強力になる。

何かが欲しいなら、それを求めるのだ!

1 件のコメント:

  1. ニュー・ワールド・オーダー http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=600415

    グレーメン http://video.google.com/videoplay?docid=1431037135738418803#

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