2010年1月31日日曜日

☆☆3分間日記


3分間日記
成功と幸せを呼ぶ小さな習慣
今村暁 いまむらさとる
かんき出版2005/4

人生が思い通りにならない人も
仕事がうまくいかない人も
勉強がはかどらない人も、
人付き合いが苦手な人も、
なんだかいつもツイていない人も、
2週間であなたの毎日がかわります







目次

○まずは自分の夢や目標を見つけよう!

○3分間日記の書き方

○良い心質でなければ、成功しないし幸せにもなれない

○成功を手に入れるための7つのヒント・・・より早く確実に夢や目標を達成するためのコツ

○幸せな毎日を送るための8つのヒント・・・満たされた人生にするための考え方





○まずは自分の夢や目標を見つけよう!

 夢や目標のない日記は、目的のない会議の議事録のようなものだ。

○リストアップ法・・・自分の夢や目標を探り出そう

1.目標は長期と短期の2つを設定

2.最初の1週間はやりたいことを列挙する

3.自分の夢や目標を見つける手がかりとなる質問例

  • 何を食べたい?
  • 何をしたい?
  • どこへ行きたい?
  • 何を聞きたい?
  • 何を見たい?
  • 誰に会いたい?
  • 何を買いたい?
  • 何を知りたい?
  • 何をなおしたい?
  • 誰をよろこばせたい?
  • 何を話したい?
  • 何を集めたい?
  • 何に乗りたい?
  • 何を書きたい?

 ・実現可能かどうかなんて考えないこと

 ・夢が思いつかなければ欲で考える

4.実現する可能性が高い夢や目標の書き方

  • 夢や目標は、具体的に、明確に書こう
  • 夢に日付をいれよう
  • イメージしてみると本当の夢かどうかが判断できる・・・リアルにイメージでき、ぜひやりたいと思うなら本当の夢





○3分間日記の書き方

・毎日書く5つの項目

  1. 目標 長期 短期
  2. やりたいこと  →やること
  3. 今日の出来事
  4. 今日の感謝
  5. 今日の成功法則・学びの言葉

・朝 1、2を書き、夜寝る前に 3,4,5を書く

  →日記と言わずに、自分に対する「日報」で義務とする

・目標は「なりたい」と書かず、「である」「です」「している」と進行形で書く

・目標の変更はok、妥協は不可

・書いたことは実現するという習慣をつける

・チームの成功法則集をつくる

・自分だけの名言集をつくる



一人自己啓発の質問

  • 10年後はどうなっていいたいのか
  • 自分は何が得意なのか
  • どんな家に住んでみたいのか
  • どんな車に乗りたいのか
  • 旅行してみたい場所は
  • どんな人と知り合いたいのか
  • どんな教養を身につけたいのか
  • どんな人と付き合いたいのか
  • どんな家庭を築きたいのか
  • 子供は欲しいのか
  • 家族に感謝しているか
  • どんな親孝行をしたいのか
  • 誰を喜ばせたい
  • どんな心質を手に入れたいのか
  • どんな会社に転職したいのか
  • どんな仕事につきたいのか



心質を悪くする言葉の例

○人を支配しようとする言葉

  • 命令 ~しろ、~しなさい →依頼 ~お願いします
  • 詰問 どうして~できない? →どうすれば改善できるだろうか?
  • 忠告 言っておくけど~だから →注意すべき点は~
  • 批判 ~がダメ、~が悪い → ~するためには~したほうがいい:建設的不満
  • 他、恫喝、説教、非難、欠点の指摘など

○人に依存する言葉

  • 不平不満 ぶつぶつ、くどくど →建設的不満をもつ ~するためにどうしたらよいか
  • 卑屈 どうせ自分なんかできない → できるようにするためには 課題は
  • 開き直り どうせ俺が悪いんでしょ → 汚名返上 信頼回復をめざす
  • 依存語 ~さんがしてくれないかしら 

         → 率先垂範 優先順位にもとづき仕事の分担を明確に

  • 決め付け語 ~さんは~だから 
  • 無責任語 わかりません どうしたらいいですか
  • 他、言い訳、責任転嫁、悪口、陰口、うわさ話、誇張、脚色など

   →「頭がいい人悪い人の話し方」樋口裕一



   →頭の悪い話し方 


頭の悪い人の話し方チェックシート  

[1] 根拠を言わずに決め付ける例:「バカもん!とやかく考える必要はない!悪いに決まっている!」

[2]
自慢ばかりする例:「毎年ハワイに行っててね、買い物し過ぎて結局いつも人にあげちゃうのよね。」

[3]
自分のことしか話さない例:「私の話ばっかりなっちゃってゴメン、ただもう一ついい?私の意見としては~」

[4]
具体例を言わず、抽象的な難しい言葉を使う例:「ダメだなコレじゃ、やっぱり保守的過ぎるんだよもっと前衛的にいかないと」

[5]
道徳的説教ばかりする例:「今の若者は世の中が豊かになったから、努力、忍耐、それに純粋さを忘れておる!」

[6]
強がりばかり言う例:「仕事ってある意味戦争じゃん。勝つか負けるかなんだよね、所詮。」

[7]
感動癖がある例:「すごーい、課長。私、感動しました~!!」

[8] 自分の価値観だけで全てを判断する例:「俺の今までの経験から言うとナシだな」

[9] おべっかばかりで自分の意見を言わない例:「部長のおっしゃる通りでございます!全く私も同じ意見です。」

[10]
他人の権威を笠に着る例:「俺もごり押しはしないけどさ、先週二人で飲んだ時社長が是非そうしてくれって、言うからさぁ。」
これだけは覚えよう!



[11] ケチばかりつける例:「君、最近仕事がおろそかになってない?それにその髪型!何とかなんない!?何その目つきは!」

[12] すんだことをいつまでも蒸し返す例:「今日の会議での態度、アレはないんよね。そういえば去年の新年会でも飲んで大暴れしたよねぇ」

[13] 何でも勘ぐる例:「そのメール誰から?ねぇ、誰から~?怪しい」

[14]
優柔不断ではっきり言わない例:「アナタのこと、好きでも嫌いでもないの。友達以上恋人未満でいたいの。」

[15]
感情に振り回される例:「あたし、絶対あの男許せない!クズよ!えっ、あんたは黙っててよ。関係ないじゃない!」

[16]
丁寧すぎる例:「この道をまっすぐ行くと年の離れた夫婦が二人でやってる薬局がありまして、その薬局右に曲がると大きい通り、いや、中くらいの通りかなぁ・・・」

[17] 少ない情報で決め付ける例:「清水さん、髪切ったんだ。失恋したぁのぉ?」

[18]
低レベルの解釈をする例:「あー、なるほど、つまり愛が勝つってことね!」

[19]
感情の起伏が激しい例:「くそぉ、なんでなんだよぉ・・・(と泣き出す)、(急に怒り出し)くそぉ!一生恨んでやる!!」

[20]
スポーツ新聞などの知識を自分の意見のように話す例:「結局、ヨン様ブームってさ、純愛を忘れたおば様方が夢中になるわけよ!わかる?」
これだけは覚えよう!


[21]
自分を権威付けようとする例:「まぁ、俺・・・公認会計士の資格持ってるしさ、ほら、うちの実家会社やってるじゃない?」

[22]
人の話を聞かない例:(話し聞いているふり)「うん、へぇそうなんだ。ふーん・・・・・えっ!!?」

[23]
知ったかぶりをする例:「知ってる?フランス料理ってもともとイタリア料理の物マネから始まったんだよ。ちなみに~」

[24]
ぐずぐずと話して何を言いたいのか分からない例:「ご機嫌を損ねるかもしれませんが、これはあくまで私の意見でして。あの・・・参考までに・・・」

[25] 差別意識を口に出す例:「人から東大東大って言われるけど、それなりに大変なのよ。まぁ、君らには分からないと思うけど。」

[26] きれいごとの理想論ばかりを言う例:「失敗したっていいじゃん。結果よりいかに努力したかが大事!真正面からぶつかってみな、って!」

[27] 善人になりたがる例:(ラーメンにゴキブリを発見して)「あのコレ。取り替えて頂けますでしょうか?あ、気にしないで下さい。」

[28] 人の考えをすぐ鵜呑みにする例:「え~気付かなかった!なるほど~家でやってみるわ!!」

[29]
難解なことを言って煙に巻く例:「うんうん、それなら今後コンセンサスとっていこうよ。今後は、リスクマネージメントしてさ」

[30]
何かにつけて目立とうとする例:「(大声で)残念!!」


■頭の悪い人の話し方チェックシート解説  


 これらのことをうまく活用して上手く怒れるようになって、コミュニケーション上手になりましょう。
いかがでしたか?以上の30項目の中で自分にあてはまるものはいくつあったでしょうか?

どれも頭の悪い人の話し方の例ですが、多いほど悪いということでもありません。

あくまでも自分でチェックしたものですから、自覚しているというのは必ずしも悪いことではありません。

また、別の人に自分のチェックをしてもらい、それを比べるというのも客観的な意見が聞けるのでいいかもしれません。

知的に見えるような話し方をする。

つまり、愚かに見えないように注意するうちに実際に知的になっていくことはできます。

愚かか、賢いかは、生まれつきの頭脳で決まっているものではありません。

話し方というのは、まさに『思考の習慣』です。

自分の会話のあり方を振り返り、しっかりした、会話の仕方を身に付けて、それを続けて仕事やプライベートでも、いい人間関係を築く努力をしましょう。

これだけは覚えよう!

話し方は『思考の習慣』。

愚かに見えないように注意し、会話することで知的になれる!



○幸せな毎日を送るための8つのヒント

1.成功と幸せの違い

  幸せは、成功すれば得られるものではない。
 
  成功と幸せは、それを手に入れる方法も異なる。

2.自分の感性、感情を大切にする

  人生は今の連続。「今」を大切にする。
 
  「今」を感じる「感性」を大切にする。・・・風呂に入って「あぁ気持ちいいなぁ」

3.自分のことをよく知る。自分のことを好きになる。

  あなたは、あなたのファン第1号!

  知らないものは好きになれない。

4.自分にokを出そう

  自分を認めることから幸せの扉は開ける。

5.人を喜ばせる。人を認める。

  人は人の力を得ることで幸せになれる。

  夢を語り続けるには夢を聞き続ける人が必要


6.何事に対しても自分が「選んだ」と考える

  人は何事に対しても「選んでいる」。

  他責型人間より自責型人間になれ。

7.油断大敵より不満大敵

  一流の人は油断などしない。

  心に大きな重しとなる不満。

  不満の特効薬は感謝。

8.落ち込んだとき、迷ったときに有効な内観法・・・自分の内面を見る方法

  自分の性格形成を探る。
   ・「してもらったこと」は何か
   ・「感謝していること」は何か
   ・「してあげたこと」は何か
 
  心の垢を洗い落とす。
 
   

☆☆一分間謝罪法


一分間謝罪法
あなたを危機から救う
ケン・ブランチャード
マーグレット・マクブライド
扶桑社2003/1





○人に謝るうえで

最も難しいのは

自分の過ちを悟り

認めることである

△悩みの言葉

  • こんな状況でさえなければ
  • あんなことをしなければ
  • なんとかなったかもしれないのに

 ・・・自分自身に対して正直になるうえで障害となる言葉

○君はこの週末をどう過ごすつもり?

 もう変えるわけにはいかない過去のことを後悔して過ごすの?

 それとも、事態をよくするための新しい技術を学んだ週末として、記憶したいのか?

○ここで復習 一分間マネジメントとは

  1. 一分間目標設定
  2. 一分間で人を褒める方法
  3. 一分間で人をとがめる方法

○マネージャー本人が間違えた場合どうするか?

 →一分間謝罪法が生まれた

  1. 間違いを認め、結果でなく、原因に取り組む
  2. 降伏する
  3. 誠実であること

1.間違いを認め、結果でなく、原因に取り組む

○チェックリスト

  • わたしはどんな誤りを犯したのか?
  • ほかの人や、その希望や感情、アイデアを無視したのか?
  • なぜそんなことをしたのか?

   ・一時の感情にかられたのか

   ・不注意なふるまいだったのか

   ・計算ずくだったのか

   ・不安や腹立ち不満の結果だったのか

   ・私の動機はなんだったのか

   ・こんなことをいつから続けていたのか

   ・はじめてのことか、何度も繰り返されたことか

   ・そういう振る舞いをするくせになっているのか

  • 私が向き合ってない真実は何か?
  • 私はそうした振る舞いが示すよりもましな人間なのか?

2.一分間謝罪法は「降伏する」ことからはじめる

  • 私が間違いを犯したこと、その埋め合わせが必要なこと、自分自身に正直になって認める。
  • 自分の行動にすべての責任を負い、たとえ結果がどうなろうと、自分が傷つけた相手にあやまらなくてはならないということを心から理解する。
  • あやまるにあたっては「緊急の意識」をもつ―できるだけ早く行動する。
  • わたしが傷つけた相手に、自分がどんな悪いことをしたか具体的に伝える。
  • その相手に、自分のしたことについてどう感じているかを伝える。

3.一分間謝罪法は「誠実であること」によって完全になる

  • 自分の行動と、こうありたいと思う自分とは、一致していないことを理解する。
  • 本来の私は、そのひどり振る舞いが示すよりもましな人間であることを再確認し、自分自身を許す。
  • 償いをすることによって、こちらが相手をどれだけ傷つけてしまったかを理解し、自分の態度をあらためることで、もう二度とそうした行動を繰り返さないという決意をはっきりと示す。

☆日本人がよく「あやまる」ほうといわれているが、「すみません」の一言だけで、すましていないだろうか?

 「すみません」の一言の裏にいろいろなものが抜け落ちていないだろうか?

 本当の意味ある「お詫び」とは何か、わかっているだろうか?

☆☆客は店で感動したい!



客は店で感動したい!


顧客満足を生み出す接客アクション

馬渕哲

南條恵

日本経済新聞社1998/6

この本のビデオ版 「誰でもできる感想接客」

入りやすい店売れる店
続・入りやすい店売れる店
入りやすい店の秘密
良い店悪い店の法則




○感動を生みだす6つのアクション
  1. 少し長くするアクションが客の心を打つ
  2. 少し早くするアクションが客を満足させる
  3. 少し多くす繰り返すアクションが客を安心させる
  4. 少し力を入れるアクションが客を信頼させる
  5. 少し力を抜くアクションが客の共感を呼ぶ
  6. 少し無関心を装うアクションが客を自由にさせる

・店員のアクションがお客様に与える印象を考える

  動きの方向、緩急

  からだの一部、全体

→ネットショップでお客様に感動を与えるには

  商品・サービス   接客

  1.商品の検討時間

  2.店員との暖かいコミュニケーション、仲間意識、共感

価格ドットコムより感動ドットコム

 感動した商品、サービス

 感動したお店、店員、接客

 「ワーオ」と「ヘェェェ」

感動するネットショップ・・・HP

販促用雑貨・・・HPで予約し店頭引き渡し

 お菓子屋さん、料理店・・・過去の作品と現在販売中の作品を表示

 お客様の声を聞く耳を持つか

トム・ピーターズの経営創造

トム・ピーターズの経営創造
トム・ピーターズ
TBSブリタニカ1995/7










・際立った特質を追求する=「ワーオ!」の追及

・正真正銘の際立った優れもの、こちらがわくわくするような型破りの製品とサービスを世に問う必要がある。

・ビジネスは本来「とても楽しい」ものなのである。

・創造性にあふれたわくわくするようなビジネスは、底抜けにおもしろい。


1.エクセレントになるために
 やってみせるというやる気をふるい起こすことで、周囲の者が(同僚を含めて)どんな邪魔立てをしようとも、妥協をしないという強い決意が必要だ。

・何が何でもくじけず・毎日なにか新しいことを学び続け・不器用でもいいから練習を重ねてすっかり自分の身についてしまうまで、懸命にやり抜くこと。


2.しくじりを大切にしよう

3.精一杯の真心をこめた応対・・・真心のこもった心づかいという贈り物

4.選手たちにやる気を起こさせるのが私の仕事ではない。私の役目は、選手たちがやる気を失わないようにすることだ。

・殺されそうになっても笑顔を絶やすな。

○偉大であること=毎日新しい自分と出会えるように、自分を改造していく想像力と熱意をもつこと

・わたしは従業員がこの会社でずっと働いていたいと思うような環境を整えることに心を砕いている。

・仕事を遂行するのに最適な人材をいつなりと、またどこからでも、瞬時に動員できるようにしておく必要がある。




レナード・バーンスタイン 生きるということはこういうことだ 
マーラーの交響曲第9番第一楽章

絵のある人生―見る楽しみ、描く喜び―




絵のある人生―見る楽しみ、描く喜び―

安野光雅

岩波新書2003/9

















  • いい絵とは何だろう

  • 名画はどのように生まれたのだろう

  • 画家たちはどう生きたのか

○絵を見る・・・・心を動かされる満ち足りた時間・・・


・動かない絵をみるときは、先入観をなくし、自分の目で見、自分の頭で考えながら見ることが大切だと思います。


 結婚相手を選ぶとき、人の意見だけで決める人はいないのに似ています。


 他の人がいいと言う絵が、自分には納得できないことがあっていいのです。


 絵は、絵とそれを見る人との共同作業で、そこに美しい世界を広げているのです。



 美しいものに反応する感覚は、絵を見ることの経験によっても磨かれる。


・トルストイ「美をあらわすことはできても、定義することはできない」


・「美しい」と「きれい」



・美しいとは、心を動かされること。


・美しいというのは醜悪な部分までも含んでいる。


 醜悪なものでも心を打たずにはおれないものがある。


秋の枯れ葉の褪せた色も美しい。


グリューネヴァルト 「イーゼンハイム祭壇画」


















・金子光晴 

・その絵に没入して心を洗われる思いがする

・仕事ととして描く    描きたいという衝動に駆られて描く

・解説を聞きすぎては「発見」になりません。

自分の目で見て、感じ、また考えるのでなくては意味がありません。

宇宙に上手にお願いする法


宇宙に上手にお願いする法
ピエール・フランク
サンマーク出版2007/6





○本当の豊かさとは、お金を超えたところにあります。

ですから、本当の意味で幸せになるには、

たとえば次のようなことを考える必要があります。

  • 健康
  • パートナーとのすばらしい関係
  • 仕事の充実
  • 真の友人
  • 自分自身と他人のために十分な時間がさけること
  • 心の平安

△マンモン

 七つの大罪

○人生における喜びや自由な心を得るために、

お金を願う価値は十分にあるのです。

愛を得る

愛を与える

何をどうすればいいのだろう

HEART BOOK


HEART BOOK
廣瀬裕子
PHP2000/4





○この本の使い方

人は、そのとき、そのときで、

変わります。

いいときもあれば

わるいときもあるし

たのしいときもあれば

ちょっとつらいときもあります。

大事なのは、

いいときもわるいときも

変わらずに

いい思い、いいハートで

いようとすることです。

そのためには、

自分を信じること

はげますこと

見つめること

思いやること

気づくこと

見失わないこと

勇気づけること

などが必要です。

この本のなかに

いい思いや

いいハートに

つながる言葉があれば

いいなと思います。

そして、そのとき、そのときに

合わせて

その言葉を

つかってもらえたら

嬉しいと思います。

2010年1月30日土曜日

私の個人主義

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

私の個人主義
夏目漱石
    ――大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述―― 
 私は今日初めてこの学習院というものの中に這入(はい)りました。もっとも以前から学習院は多分この見当だろうぐらいに考えていたには相違(そうい)ありませんが、はっきりとは存じませんでした。中へ這入ったのは無論今日が初めてでございます。


 さきほど岡田さんが紹介(しょうかい)かたがたちょっとお話になった通りこの春何か講演をというご注文でありましたが、その当時は何か差支(さしつかえ)があって、――岡田さんの方が当人の私よりよくご記憶(きおく)と見えてあなたがたにご納得のできるようにただいまご説明がありましたが、とにかくひとまずお断りを致(いた)さなければならん事になりました。しかしただお断りを致すのもあまり失礼と存じまして、この次には参りますからという条件をつけ加えておきました。

その時念のためこの次はいつごろになりますかと岡田さんに伺(うかが)いましたら、此年(ことし)の十月だというお返事であったので、心のうちに春から十月までの日数を大体繰(く)ってみて、それだけの時間があればそのうちにどうにかできるだろうと思ったものですから、よろしゅうございますとはっきりお受合(うけあい)申したのであります。ところが幸か不幸か病気に罹(かか)りまして、九月いっぱい床(とこ)についておりますうちにお約束(やくそく)の十月が参りました。十月にはもう臥(ふ)せってはおりませんでしたけれども、何しろひょろひょろするので講演はちょっとむずかしかったのです。しかしお約束を忘れてはならないのですから、腹の中では、今に何か云(い)って来られるだろう来られるだろうと思って、内々(ないない)は怖(こわ)がっていました。


 そのうちひょろひょろもついに癒(なお)ってしまったけれども、こちらからは十月末まで何のご沙汰(さた)もなく打ち過ぎました。私は無論病気の事をご通知はしておきませんでしたが、二三の新聞にちょっと出たという話ですから、あるいはその辺の事情を察せられて、誰(だれ)かが私の代りに講演をやって下さったのだろうと推測して安心し出しました。ところへまた岡田さんがまた突然(とつぜん)見えたのであります。

岡田さんはわざわざ長靴を穿(は)いて見えたのであります。(もっとも雨の降る日であったからでもありましょうが、)そう云った身拵(みごしら)えで、早稲田(わせだ)の奥(おく)まで来て下すって、例の講演は十一月の末まで繰り延ばす事にしたから約束通りやってもらいたいというご口上なのです。私はもう責任を逃(のが)れたように考えていたものですから実は少々驚(おど)ろきました。しかしまだ一カ月も余裕(よゆう)があるから、その間にどうかなるだろうと思って、よろしゅうございますとまたご返事を致しました。



 右の次第で、この春から十月に至るまで、十月末からまた十一月二十五日に至るまでの間に、何か纏(まとま)ったお話をすべき時間はいくらでも拵えられるのですが、どうも少し気分が悪くって、そんな事を考えるのが面倒(めんどう)でたまらなくなりました。そこでまあ十一月二十五日が来るまでは構うまいという横着な料簡(りょうけん)を起(おこ)して、ずるずるべったりにその日その日を送っていたのです。

いよいよと時日が逼(せま)った二三日前になって、何か考えなければならないという気が少ししたのですが、やはり考えるのが不愉快(ふゆかい)なので、とうとう絵を描(か)いて暮(く)らしてしまいました。絵を描くというと何かえらいものが描けるように聞(きこ)えるかも知れませんが、実は他愛もないものを描いて、それを壁(かべ)に貼(は)りつけて一人で二日も三日もぼんやり眺(なが)めているだけなのです。

昨日でしたかある人が来て、この絵は大変面白い――いや面白いと云ったのではありません、面白い気分の時に描いた画(え)らしく見えると云ってくれたのでした。それから私は愉快だから描いたのではない、不愉快だから描いたのだと云って私の心の状態をその男に説明してやりました。世の中には愉快でじっとしていられない結果を画にしたり、書にしたり、または文にしたりする人がある通り、不愉快だから、どうかして好い心持(こころもち)になりたいと思って、筆を執(と)って画なり文章なりを作る人もあります。そうして不思議にもこの二つの心的状態が結果に現われたところを見るとよく一致(いっち)している場合が起るのです。しかしこれはほんのついでに申し上(あげ)る事で、話の筋に関係した問題でもありませんから深くは立ち入りません。

――何しろ私はその変な画を眺めるだけで、講演の内容をちっとも組み立てずに暮らしてしまったのです。 そのうちいよいよ二十五日が来たので、否(いや)でも応でもここへ顔を出さなければすまない事になりました。それで今朝(けさ)少し考(かんがえ)を纏(まと)めてみましたが、準備がどうも不足のようです。とてもご満足の行くようなお話はできかねますから、そのつもりでご辛防(しんぼう)を願います。

 この会はいつごろから始まって今日まで続いているのか存じませんが、そのつどあなたがたがよその人を連れて来て、講演をさせるのは、一般の慣例として毫(ごう)も不都合でないと私も認めているのですが、また一方から見ると、それほどあなた方の希望するような面白い講演は、いくらどこからどんな人を引張(ひっぱ)って来ても容易に聞かれるものではなかろうとも思うのです。あなたがたにはただよその人が珍(めず)らしく見えるのではありますまいか。




 私が落語家(はなしか)から聞いた話の中にこんな諷刺的(ふうしてき)のがあります。



――昔(むか)しあるお大名が二人(ふたり)目黒辺へ鷹狩(たかがり)に行って、所々方々を馳(か)け廻(まわ)った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも離(はな)れ離(ばな)れになって口腹を充(み)たす糧(かて)を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある汚(きた)ない百姓家(ひゃくしょうや)へ馳け込んで、何でも好いから食わせろと云ったそうです。するとその農家の爺(じい)さんと婆(ばあ)さんが気の毒がって、ありあわせの秋刀魚(さんま)を炙(あぶ)って二人の大名に麦飯を勧めたと云います。二人はその秋刀魚を肴(さかな)に非常に旨(うま)く飯を済まして、そこを立出(たちいで)たが、翌日になっても昨日の秋刀魚の香(かおり)がぷんぷん鼻を衝(つ)くといった始末で、どうしてもその味を忘れる事ができないのです。それで二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚のご馳走(ちそう)をする事になりました。その旨(むね)を承(うけたま)わって驚ろいたのは家来です。しかし主命ですから反抗(はんこう)する訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜(けぬき)で一本一本抜(ぬ)かして、それを味淋(みりん)か何かに漬(つ)けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧(ばかていねい)な料理方で秋刀魚の味を失った妙(みょう)な肴を箸(はし)で突(つ)っついてみたところで、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合せて、どうも秋刀魚は目黒に限るね


といったような変な言葉を発したと云うのが話の落(おち)になっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味に飽(あ)いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったのではないかと思われるのです。



 この席におられる大森教授は私と同年かまたは前後して大学を出られた方ですが、その大森さんが、かつて私にどうも近頃(ちかごろ)の生徒は自分の講義をよく聴(き)かないで困る、どうも真面目(まじめ)が足りないで不都合(ふつごう)だというような事を云われた事があります。その評はこの学校の生徒についてではなく、どこかの私立学校の生徒についてだったろうと記憶していますが、何しろ私はその時大森さんに対して失礼な事を云いました。 ここで繰り返していうのもお恥(は)ずかしい訳ですが、私はその時、君などの講義をありがたがって聴く生徒がどこの国にいるものかと申したのです。

もっとも私の主意はその時の大森君には通じていなかったかも知れませんから、この機会を利用して、誤解を防いでおきますが、私どもの書生時代、あなたがたと同年輩(どうねんぱい)、もしくはもう少し大きくなった時代、には、今のあなたがたよりよほど横着で、先生の講義などはほとんど聴いた事がないと云っても好いくらいのものでした。もちろんこれは私や私の周囲のものを本位として述べるのでありますから、圏外(けんがい)にいたものには通用しないかも知れませんけれども、どうも今の私からふり返ってみると、そんな気がどこかでするように思われるのです。現にこの私は上部(うわべ)だけは温順らしく見えながら、けっして講義などに耳を傾(かたむ)ける性質ではありませんでした。始終怠(なま)けてのらくらしていました。

その記憶をもって、真面目な今の生徒を見ると、どうしても大森君のように、彼らを攻撃(こうげき)する勇気が出て来ないのです。そう云った意味からして、つい大森さんに対してすまない乱暴を申したのであります。今日は大森君に詫(あや)まるためにわざわざ出かけた次第ではありませんけれども、ついでだからみんなのいる前で、謝罪しておくのです。 話がついとんだところへ外(そ)れてしまいましたから、再び元へ引き返して筋の立つように云いますと、つまりこうなるのです。



 あなたがたは立派な学校に入って、立派な先生から始終指導を受けていらっしゃる、またその方々の専門的もしくは一般的(いっぱんてき)の講義を毎日聞いていらっしゃる。それだのに私みたようなものを、ことさらによそから連れて来て、講演を聴こうとなされるのは、ちょうど先刻お話したお大名が目黒の秋刀魚を賞翫(しょうがん)したようなもので、つまりは珍らしいから、一口食ってみようという料簡じゃないかと推察されるのです。実際をいうと、私のようなものよりも、あなたがたが毎日顔を見ていらっしゃる常雇(じょうやと)いの先生のお話の方がよほど有益でもあり、かつまた面白かろうとも思われるのです。



たとい私にしたところで、もしこの学校の教授にでもなっていたならば、単に新らしい刺戟(しげき)のないというだけでも、このくらいの人数が集って私の講演をお聴きになる熱心なり好奇心(こうきしん)なりは起るまいと考えるのですがどんなものでしょう。 私がなぜそんな仮定をするかというと、この私は現に昔しこの学習院の教師になろうとした事があるのです。もっとも自分で運動した訳でもないのですが、この学校にいた知人が私を推薦(すいせん)してくれたのです。その時分の私は卒業する間際まで何をして衣食の道を講じていいか知らなかったほどの迂濶者(うかつもの)でしたが、さていよいよ世間へ出てみると、懐手(ふところで)をして待っていたって、下宿料が入って来る訳でもないので、教育者になれるかなれないかの問題はとにかく、どこかへ潜(もぐ)り込(こ)む必要があったので、ついこの知人のいう通りこの学校へ向けて運動を開始した次第であります。その時分私の敵が一人ありました。しかし私の知人は私に向ってしきりに大丈夫(だいじょうぶ)らしい事をいうので、私の方でも、もう任命されたような気分になって、先生はどんな着物を着なければならないのかなどと訊(き)いてみたものです。するとその男はモーニングでなくては教場へ出られないと云いますから、私はまだ事のきまらない先に、モーニングを誂(あつ)らえてしまったのです。そのくせ学習院とはどこにある学校かよく知らなかったのだから、すこぶる変なものです。さていよいよモーニングが出来上(できあが)ってみると、あに計らんやせっかく頼(たの)みにしていた学習院の方は落第と事がきまったのです。

そうしてもう一人の男が英語教師の空位を充たす事になりました。その人は何という名でしたか今は忘れてしまいました。別段悔(くや)しくも何ともなかったからでしょう。何でも米国帰りの人とか聞いていました。――それで、もしその時にその米国帰りの人が採用されずに、この私がまぐれ当りに学習院の教師になって、しかも今日まで永続していたなら、こうした鄭重(ていちょう)なお招きを受けて、高い所からあなたがたにお話をする機会もついに来なかったかも知れますまい。

それをこの春から十一月までも待って聴いて下さろうというのは、とりも直さず、私が学習院の教師に落第して、あなたがたから目黒の秋刀魚のように珍らしがられている証拠(しょうこ)ではありませんか。



 私はこれから学習院を落第してから以後の私について少々申上(もうしあ)げようと思います。これは今までお話をして来た順序だからという意味よりも、今日の講演に必要な部分だからと思って聴いていただきたいのです。 私は学習院は落第したが、モーニングだけは着ていました。それよりほかに着るべき洋服は持っていなかったのだから仕方がありません。そのモーニングを着てどこへ行ったと思いますか? 

その時分は今と違(ちが)って就職の途(みち)は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が払底(ふってい)なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等師範(しはん)からほとんど同時に口がかかりました。私は高等学校へ周旋(しゅうせん)してくれた先輩に半分承諾(しょうだく)を与えながら、高等師範の方へも好(い)い加減な挨拶(あいさつ)をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行届(ふゆきとどき)がちで、とうとう自分に祟(たた)って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられた事は事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参の教授の所へ呼びつけられて、こっちへ来るような事を云いながら、他(ほか)にも相談をされては、仲に立った私が困ると云って譴責(けんせき)されました。

私は年の若い上に、馬鹿の肝癪持(かんしゃくもち)ですから、いっそ双方(そうほう)とも断ってしまったら好いだろうと考えて、その手続きをやり始めたのです。するとある日当時の高等学校長、今ではたしか京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、さっそく出かけてみると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎(かのうじごろう)さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談はきまった、こっちに遠慮(えんりょ)は要(い)らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行(いき)がかり上否(いや)だとは云えませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介(やっかい)な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。

というものは今考えるともったいない話ですが、私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範(もはん)になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡(しゅんじゅん)したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。

こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持(かけもち)しようなどという慾張根性(よくばりこんじょう)は更(さら)になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。

 しかし教育者として偉(えら)くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈(きゅうくつ)で恐(おそ)れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困ると云ったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向(ふむき)な所だとしか思われませんでした。

奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子家(かしや)へ手伝いに行ったようなものでした。

 一年の後私はとうとう田舎(いなか)の中学へ赴任(ふにん)しました。それは伊予(いよ)の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名(あだな)をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので

――はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。 松山にもたった一カ年しかおりませんでした。立つ時に知事が留めてくれましたが、もう先方と内約ができていたので、とうとう断ってそこを立ちました。そうして今度は熊本(くまもと)の高等学校に腰(こし)を据(す)えました。

こういう順序で中学から高等学校、高等学校から大学と順々に私は教えて来た経験をもっていますが、ただ小学校と女学校だけはまだ足を入れた試(ためし)がございません。 熊本には大分長くおりました。突然文部省から英国へ留学をしてはどうかという内談のあったのは、熊本へ行ってから何年目になりましょうか。私はその時留学を断(こと)わろうかと思いました。それは私のようなものが、何の目的ももたずに、外国へ行ったからと云って、別に国家のために役に立つ訳もなかろうと考えたからです。しかるに文部省の内意を取次(とりつ)いでくれた教頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評価する必要はない、ともかくも行った方が好かろうと云うので、私も絶対に反抗する理由もないから、命令通り英国へ行きました

しかし果(はた)せるかな何もする事がないのです。 それを説明するためには、それまでの私というものを一応お話ししなければならん事になります。そのお話がすなわち今日の講演の一部分を構成する訳なのですからそのつもりでお聞きを願います。

 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋(たず)ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中(むちゅう)だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞(かんし)が落ちていると云って叱(しか)られたり、発音が間違っていると怒(おこ)られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並(なら)べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。

英文学はしばらく措(お)いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解(わか)るはずがありません。それなら自力でそれを窮(きわ)め得るかと云うと、まあ盲目(めくら)の垣覗(かきのぞ)きといったようなもので、図書館に入って、どこをどううろついても手掛(てがかり)がないのです。これは自力の足りないばかりでなくその道に関した書物も乏(とぼ)しかったのだろうと思います。とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです

私の煩悶(はんもん)は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。 私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にされてしまったのです。幸に語学の方は怪(あや)しいにせよ、どうかこうかお茶を濁(にご)して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚(くうきょ)でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮(に)え切らない漠然(ばくぜん)たるものが、至る所に潜(ひそ)んでいるようで堪(た)まらないのです。

しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙(すき)があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。

 私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧(きり)の中に閉じ込められた孤独(こどく)の人間のように立ち竦(すく)んでしまったのです。

そうしてどこからか一筋の日光が射(さ)して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条(ひとすじ)で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢(ふくろ)の中に詰(つ)められて出る事のできない人のような気持がするのです。

私は私の手にただ一本の錐(きり)さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥(あせ)り抜(ぬ)いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝(いんうつ)な日を送ったのであります。



 私はこうした不安を抱(いだ)いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越(ひっこ)し、また同様の不安を胸の底に畳(たた)んでついに外国まで渡(わた)ったのであります。

しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然(いぜん)として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。

いくら書物を読んでも腹の足(たし)にはならないのだと諦(あきら)めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。


 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念(がいねん)を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟(さと)ったのです。


今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂(ただ)よっていたから、駄目(だめ)であったという事にようやく気がついたのです。


私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似(ひとまね)を指すのです。


一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審(ふしん)がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。

近頃流行(はや)るベルグソンでもオイケンでもみんな向(むこ)うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬(しりうま)に乗って騒(さわ)ぐのです。

ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従(もうじゅう)して威張(いば)ったものです。

だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴(ふいちょう)して得意がった男が比々皆(みな)是(これ)なりと云いたいくらいごろごろしていました。他(ひと)の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。

たとえばある西洋人が甲(こう)という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑(ふ)に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触(ふ)れ散らかすのです。つまり鵜呑(うのみ)と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔(わがものがお)にしゃべって歩くのです。

しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞(ほ)めるのです。

 けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀(くじゃく)の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。

それでもう少し浮華(ふか)を去って摯実(しじつ)につかなければ、自分の腹の中はいつまで経(た)ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。


 たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売(うけうり)をすべきはずのものではないのです。



私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢(どひ)でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具(そな)えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです



 しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の考(かんがえ)と矛盾(むじゅん)してはどうも普通(ふつう)の場合気が引ける事になる。

そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。

風俗、人情、習慣、溯(さかのぼ)っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと乙(おつ)の国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性が含(ふく)まれていると誤認してかかる。

そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を融和(ゆうわ)する事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。

そうして単にその説明だけでも日本の文壇(ぶんだん)には一道の光明を投げ与(あた)える事ができる。

――こう私はその時始めて悟ったのでした。はなはだ遅(おそ)まきの話で慚愧(ざんき)の至(いたり)でありますけれども、事実だから偽(いつわ)らないところを申し上げるのです。

 私はそれから文芸に対する自己の立脚地(りっきゃくち)を堅(かた)めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁(えん)のない書物を読み始めました。

一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的(てつがくてき)の思索(しさく)に耽(ふけ)り出したのであります。

今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚(ようち)な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。

 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握(にぎ)ってから大変強くなりました。彼(かれ)ら何者ぞやと気慨(きがい)が出ました。



今まで茫然(ぼうぜん)と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図(さしず)をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。



 自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。
そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯(しょうがい)の事業としようと考えたのです。


 その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝(いんうつ)な倫敦を眺めたのです。比喩(ひゆ)で申すと、私は多年の間懊悩(おうのう)した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘(ほ)り当てたような気がしたのです。

なお繰(く)り返(かえ)していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです

 かく私が啓発(けいはつ)された時は、もう留学してから、一年以上経過していたのです。それでとても外国では私の事業を仕上(しあげ)る訳に行かない、とにかくできるだけ材料を纏めて、本国へ立ち帰った後、立派に始末をつけようという気になりました。すなわち外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然(ぐうぜん)ながらある力を得た事になるのです。 ところが帰るや否や私は衣食のために奔走(ほんそう)する義務がさっそく起りました。

私は高等学校へも出ました。大学へも出ました。後では金が足りないので、私立学校も一軒(けん)稼(かせ)ぎました。その上私は神経衰弱(しんけいすいじゃく)に罹りました。最後に下らない創作などを雑誌に載(の)せなければならない仕儀(しぎ)に陥(おちい)りました。
いろいろの事情で、私は私の企(くわだ)てた事業を半途(はんと)で中止してしまいました。私の著(あら)わした文学論はその記念というよりもむしろ失敗の亡骸(なきがら)です。
しかも畸形児(きけいじ)の亡骸です。あるいは立派に建設されないうちに地震(じしん)で倒(たお)された未成市街の廃墟(はいきょ)のようなものです。

 しかしながら自己本位というその時得た私の考は依然としてつづいています。否年を経るに従ってだんだん強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、その時確かに握った自己が主で、他は賓(ひん)であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。

私はその引続きとして、今日なお生きていられるような心持がします。実はこうした高い壇の上に立って、諸君を相手に講演をするのもやはりその力のお蔭(かげ)かも知れません。

 以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいかという老婆心(ろうばしん)からなのであります。
あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(はんもん)(たとい種類は違っても)を繰返(くりかえ)しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。


私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴(つか)みたくっても薬缶頭(やかんあたま)を掴むようにつるつるして焦燥(じ)れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。


もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他(ひと)の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随(ふずい)しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。


いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。

私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範(もはん)になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫(すんごう)の損害がないのです。



私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心をもっているからといって、同じ径路(けいろ)があなたがたの模範になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。

 それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定(かんてい)しているのですが、どうでしょうか。

もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。


ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! 



こういう感投詞を心の底から叫(さけ)び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

容易に打ち壊(こわ)されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡(もた)げて来るのではありませんか。

すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲(ぎせい)を払(はら)っても、ああここだという掘当(ほりあ)てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。

必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。
またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。
あなたがた自身の幸福のために、
それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。
もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、
もしどこかにこだわりがあるなら、
それを踏潰(ふみつぶ)すまで進まなければ駄目ですよ。


――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。

私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、
それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙(だま)っていられなくなるのです。
腹の中の煮え切らない、徹底(てってい)しない、
ああでもありこうでもあるというような海鼠(なまこ)のような精神を抱(いだ)いてぼんやりしていては、
自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。
不愉快でないとおっしゃればそれまでです、
またそんな不愉快は通り越(こ)しているとおっしゃれば、
それも結構であります。
願(ねがわ)くは通り越してありたいと私は祈(いの)るのであります。
しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。
その苦痛は無論鈍痛(どんつう)ではありましたが、年々歳々(さいさい)感ずる痛(いたみ)には相違なかったのであります。
だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛(ゆうもう)にお進みにならん事を希望してやまないのです。
もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。



 今まで申し上げた事はこの講演の第一篇(ぺん)に相当するものですが、私はこれからその第二篇に移ろうかと考えます。


 学習院という学校は社会的地位の好い人が這入る学校のように世間から見傚(みな)されております。そうしてそれがおそらく事実なのでしょう。
もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、むしろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、向後あなたがたに附随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。
換言(かんげん)すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるという事なのです。
前申した、仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。
そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。



 これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを吟味(ぎんみ)してみると、権力とは先刻(さっき)お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧(お)しつける道具なのです。

道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。

 権力に次ぐものは金力です。
これもあなたがたは貧民よりも余計に所有しておられるに相違ない。
この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑(ゆうわく)の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。

 してみると権力と金力とは自分の個性を貧乏人(びんぼうにん)より余計に、他人の上に押し被(かぶ)せるとか、または他人をその方面に誘(おび)き寄せるとかいう点において、大変便宜(べんぎ)な道具だと云わなければなりません。

こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。

先刻申した個性はおもに学問とか文芸とか趣味(しゅみ)とかについて自己の落ちつくべき所まで行って始めて発展するようにお話し致したのですが、
実をいうとその応用ははなはだ広いもので、単に学芸だけにはとどまらないのです。

私の知っている兄弟で、弟の方は家に引込(ひっこ)んで書物などを読む事が好きなのに引(ひ)き易(か)えて、兄はまた釣道楽(つりどうらく)に憂身(うきみ)をやつしているのがあります。

するとこの兄が自分の弟の引込思案でただ家にばかり引籠(ひきこも)っているのを非常に忌(い)まわしいもののように考えるのです。

必竟(ひっきょう)は釣をしないからああいう風に厭世的(えんせいてき)になるのだと合点(がてん)して、むやみに弟を釣に引張り出そうとするのです。

弟はまたそれが不愉快でたまらないのだけれども、兄が高圧的に釣竿(つりざお)を担がしたり、魚籃(びく)を提げさせたりして、釣堀へ随行を命ずるものだから、まあ目を瞑(つむ)ってくっついて行って、気味の悪い鮒(ふな)などを釣っていやいや帰ってくるのです。

それがために兄の計画通り弟の性質が直ったかというと、けっしてそうではない、ますますこの釣というものに対して反抗心を起してくるようになります。
つまり釣と兄の性質とはぴたりと合ってその間に何の隙間もないのでしょうが、それはいわゆる兄の個性で、弟とはまるで交渉(こうしょう)がないのです。
これはもとより金力の例ではありません、権力の他を威圧する説明になるのです。

兄の個性が弟を圧迫(あっぱく)して無理に魚を釣らせるのですから。もっともある場合には、

――例えば授業を受ける時とか、兵隊になった時とか、また寄宿舎でも軍隊生活を主位におくとか――

すべてそう云った場合には多少この高圧的手段は免(まぬ)かれますまい。
しかし私はおもにあなたがたが一本立(いっぽんだち)になって世間へ出た時の事を云っているのだからそのつもりで聴いて下さらなくては困ります。

 そこで前申した通り自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に引(ひ)き摺(ず)り込んでやろうという気になる。

その時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上るし、また金力があると、それをふりまいて、他(ひと)を自分のようなものに仕立上げようとする。

すなわち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。
どっちにしても非常な危険が起るのです。

 それで私は常からこう考えています。第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進(まいしん)しなければ一生の不幸であると。

しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向(けいこう)を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。

それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いているから、あいつが左を向いているのは怪(け)しからんというのは不都合じゃないかと思うのです。

もっとも複雑な分子の寄って出来上った善悪とか邪正(じゃせい)とかいう問題になると、少々込み入った解剖(かいぼう)の力を借りなければ何とも申されませんが、そうした問題の関係して来ない場合もしくは関係しても面倒(めんどう)でない場合には、
自分が他(ひと)から自由を享有(きょうゆう)している限り、
他にも同程度の自由を与えて、
同等に取り扱(あつか)わなければならん事と信ずるよりほかに仕方がないのです。

 近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(ふちょう)に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。

いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。

我々は他が自己の幸福のために、己(おの)れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害(ぼうがい)してはならないのであります。

私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。
あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
 元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私の云う事を静粛(せいしゅく)に聴いていただく権利を保留する以上、私の方でもあなた方を静粛にさせるだけの説を述べなければすまないはずだと思います。

よし平凡(へいぼん)な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、あなたがたをして礼を正さしむるだけの立派さをもっていなければならんはずのものであります。ただ私はお客である、あなたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは上面(うわつら)の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば因襲(いんしゅう)といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。

別の例を挙げてみますと、
あなたがたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ放しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。

叱る代りには骨を折って教えてくれるにきまっています。

叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務をももっているはずなのですから。

先生は規律をただすため、秩序(ちつじょ)を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。
その代りその権利と引き離す事のできない義務も尽(つく)さなければ、教師の職を勤め終(おお)せる訳に行きますまい。

 金力についても同じ事であります。私の考(かんがえ)によると、責任を解しない金力家は、世の中にあってならないものなのです。

その訳を一口にお話しするとこうなります。金銭というものは至極重宝なもので、何へでも自由自在に融通(ゆうずう)が利く。

たとえば今私がここで、相場をして十万円儲(もう)けたとすると、その十万円で家屋を立てる事もできるし、書籍(しょせき)を買う事もできるし、または花柳(かりゅう)社界を賑(にぎ)わす事もできるし、つまりどんな形にでも変って行く事ができます。

そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。

すなわちそれをふりまいて、人間の徳義心を買い占(し)める、

すなわちその人の魂(たましい)を堕落(だらく)させる道具とするのです。

相場で儲(もう)けた金が徳義的倫理的(りんりてき)に大きな威力をもって働らき得るとすれば、どうしても不都合な応用と云わなければならないかと思われます。

思われるのですけれども、実際その通りに金が活動する以上は致し方がない。

ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗(ふはい)を防ぐ道はなくなってしまうのです。

それで私は金力には必ず責任がついて廻らなければならないといいたくなります。

自分は今これだけの富の所有者であるが、
それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、
ああいう社会にああ用いればああいう影響(えいきょう)がある
と呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、
その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、
世の中にすまないと云うのです。
いな自分自身にもすむまいというのです。



 今までの論旨(ろんし)をかい摘(つま)んでみると、

第一に自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。



第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。


第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴(ともな)う責任を重(おもん)じなければならないという事。

つまりこの三カ条に帰着するのであります。

 これをほかの言葉で言い直すと、
いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。

それをもう一遍(ぺん)云い換(か)えると、この三者を自由に享(う)け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。


もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他(ひと)を妨害する、権力を用いようとすると、濫用(らんよう)に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。


ずいぶん危険な現象を呈(てい)するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。

 話が少し横へそれますが、ご存じの通り英吉利(イギリス)という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英吉利ほど秩序の調った国はありません。

実をいうと私は英吉利を好かないのです。
嫌(きら)いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。
あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。
日本などはとうてい比較(ひかく)にもなりません。
しかし彼らはただ自由なのではありません。
自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、
小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。
だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。
England expects every man to do his duty
といった有名なネルソンの言葉はけっして当座限りの意味のものではないのです。
彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢(こんてい)をもった思想に違(ちがい)ないのです。

 彼らは不平があるとよく示威運動をやります。
しかし政府はけっして干渉(かんしょう)がましい事をしません。
黙って放っておくのです。
その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、
むやみに政府の迷惑(めいわく)になるような乱暴は働かないのです。
近頃女権拡張論者と云ったようなものがむやみに狼藉(ろうぜき)をするように新聞などに見えていますが、
あれはまあ例外です。
例外にしては数が多過ぎると云われればそれまでですが、
どうも例外と見るよりほかに仕方がないようです。
嫁(よめ)に行かれないとか、職業が見つからないとか、
または昔しから養成された、
女を尊敬するという気風につけ込むのか、
何しろあれは英国人の平生の態度ではないようです。
名画を破る、監獄(かんごく)で断食(だんじき)して獄丁(ごくてい)を困らせる、議会のベンチへ身体(からだ)を縛(しば)りつけておいて、わざわざ騒々(そうぞう)しく叫び立てる。

これは意外の現象ですが、ことによると女は何をしても男の方で遠慮するから構わないという意味でやっているのかも分りません。
しかしまあどういう理由にしても変則らしい気がします。一般の英国気質というものは、今お話しした通り義務の観念を離れない程度において自由を愛しているようです。
 それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、

要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。

と云うものは、そうしたわがままな自由はけっして社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥(はいせき)され踏(ふ)み潰(つぶ)されるにきまっているからです。私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚(はばか)らないつもりです。 この個人主義という意味に誤解があってはいけません。ことにあなたがたのようなお若い人に対して誤解を吹(ふ)き込(こ)んでは私がすみませんから、その辺はよくご注意を願っておきます。

時間が逼っているからなるべく単簡に説明致しますが、
個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、
その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及(およ)ぼすのだから、
どうしても他に影響のない限り、
僕(ぼく)は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持(はじ)し、他人にも附与(ふよ)しなくてはなるまいかと考えられます。

それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。
金力権力の点においてもその通りで、俺(おれ)の好かないやつだから畳んでしまえとか、気に喰(く)わない者だからやっつけてしまえとか、悪い事もないのに、ただそれらを濫用(らんよう)したらどうでしょう。

人間の個性はそれで全く破壊(はかい)されると同時に、人間の不幸もそこから起らなければなりません。

たとえば私が何も不都合を働らかないのに、単に政府に気に入らないからと云って、警視総監(けいしそうかん)が巡査(じゅんさ)に私の家を取り巻かせたらどんなものでしょう。
警視総監にそれだけの権力はあるかも知れないが、徳義はそういう権力の使用を彼に許さないのであります。

または三井とか岩崎とかいう豪商(ごうしょう)が、私を嫌うというだけの意味で、私の家の召使(めしつかい)を買収して事ごとに私に反抗させたなら、これまたどんなものでしょう。
もし彼らの金力の背後に人格というものが多少でもあるならば、彼らはけっしてそんな無法を働らく気にはなれないのであります。
 こうした弊害(へいがい)はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、権力なり金力なりで、一般に推し広めようとするわがままにほかならんのであります

だから個人主義、私のここに述べる個人主義というものは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、
他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、
立派な主義だろうと私は考えているのです。 
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。
朋党(ほうとう)を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動(もうどう)しないという事なのです。
それだからその裏面には人に知られない淋(さび)しさも潜んでいるのです。
すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。
そこが淋しいのです。
私がかつて朝日新聞の文芸欄(ぶんげいらん)を担任していた頃、だれであったか、三宅雪嶺(みやけせつれい)さんの悪口を書いた事がありました。
もちろん人身攻撃ではないので、ただ批評に過ぎないのです。
しかもそれがたった二三行あったのです。
出たのはいつごろでしたか、私は担任者であったけれども病気をしたからあるいはその病気中かも知れず、または病気中でなくって、私が出して好いと認定したのかも知れません。とにかくその批評が朝日の文芸欄に載ったのです。
すると「日本及び日本人」の連中が怒りました。
私の所へ直接にはかけ合わなかったけれども、当時私の下働きをしていた男に取消(とりけし)を申し込んで来ました。
それが本人からではないのです。
雪嶺さんの子分――子分というと何だか博奕打(ばくちうち)のようでおかしいが、――まあ同人といったようなものでしょう、どうしても取り消せというのです。
それが事実の問題ならもっともですけれども、批評なんだから仕方がないじゃありませんか。私の方ではこちらの自由だというよりほかに途はないのです。しかもそうした取消を申し込んだ「日本及び日本人」の一部では毎号私の悪口を書いている人があるのだからなおのこと人を驚ろかせるのです。
私は直接談判はしませんでしたけれども、その話を間接に聞いた時、変な心持(こころもち)がしました。
というのは、私の方は個人主義でやっているのに反して、向うは党派主義で活動しているらしく思われたからです。
当時私は私の作物をわるく評したものさえ、自分の担任している文芸欄へ載せたくらいですから、彼らのいわゆる同人なるものが、一度に雪嶺さんに対する評語が気に入らないと云って怒ったのを、驚ろきもしたし、また変にも感じました。
失礼ながら時代後れだとも思いました。封建(ほうけん)時代の人間の団隊のようにも考えました。しかしそう考えた私はついに一種の淋しさを脱却(だっきゃく)する訳に行かなかったのです。
私は意見の相違はいかに親しい間柄(あいだがら)でもどうする事もできないと思っていましたから、私の家に出入りをする若い人達に助言はしても、その人々の意見の発表に抑圧(よくあつ)を加えるような事は、他に重大な理由のない限り、けっしてやった事がないのです。
私は他(ひと)の存在をそれほどに認めている、すなわち他にそれだけの自由を与えているのです。だから向うの気が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるような事があっても、けっして助力は頼めないのです。
そこが個人主義の淋しさです。

個人主義は人を目標として向背(こうはい)を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。

それはそのはずです。槙雑木(まきざっぽう)でも束(たば)になっていれば心丈夫(こころじょうぶ)ですから。 それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、


何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟(りくつ)の立たない漫然(まんぜん)としたものではないのです。


いったい何々主義という事は私のあまり好まないところで、人間がそう一つ主義に片づけられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここにはやむをえず、主義という文字の下にいろいろの事を申し上げます。
ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。
しかも個人主義なるものを蹂躙(じゅうりん)しなければ国家が亡(ほろ)びるような事を唱道するものも少なくはありません。
けれどもそんな馬鹿気たはずはけっしてありようがないのです。
事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。
 個人の幸福の基礎(きそ)となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有(きょうゆう)するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云った方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。
国家が危くなれば個人の自由が狭(せば)められ、国家が泰平(たいへい)の時には個人の自由が膨脹(ぼうちょう)して来る、
それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違(かんちが)いをしてただむやみに個性の発展ばかりめがけている人はないはずです。
私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾(ずきん)が必要だと云って、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。
また例になりますが、昔し私が高等学校にいた時分、ある会を創設したものがありました。
その名も主意も詳(くわ)しい事は忘れてしまいましたが、何しろそれは国家主義を標榜(ひょうぼう)したやかましい会でした。
もちろん悪い会でも何でもありません。当時の校長の木下広次さんなどは大分肩を入れていた様子でした。その会員はみんな胸にめだるを下げていました。
私はめだるだけはご免(めん)蒙(こうむ)りましたが、それでも会員にはされたのです。
無論発起人でないから、ずいぶん異存もあったのですが、まあ入っても差支なかろうという主意から入会しました。
ところがその発会式が広い講堂で行なわれた時に、何かの機(はずみ)でしたろう、一人の会員が壇上に立って演説めいた事をやりました。ところが会員ではあったけれども私の意見には大分反対のところもあったので、私はその前ずいぶんその会の主意を攻撃していたように記憶しています。
しかるにいよいよ発会式となって、今申した男の演説を聴いてみると、全く私の説の反駁(はんばく)に過ぎないのです。
故意だか偶然だか解りませんけれども勢い私はそれに対して答弁の必要が出て来ました。
私は仕方なしに、その人のあとから演壇に上りました。
当時の私の態度なり行儀なりははなはだ見苦しいものだと思いますが、それでも簡潔に云う事だけは云って退(の)けました。
ではその時何と云ったかとお尋ねになるかも知れませんが、
それはすこぶる簡単なのです。私はこう云いました。


――国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。常住坐臥(じょうじゅうざが)国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断なく一つ事を考えている人は事実あり得ない。豆腐(とうふ)屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。これと同じ事で、今日の午(ひる)に私は飯を三杯(ばい)たべた、晩にはそれを四杯に殖(ふ)やしたというのも必ずしも国家のために増減したのではない。正直に云えば胃の具合できめたのである。しかしこれらも間接のまた間接に云えば天下に影響しないとは限らない、否観方(みかた)によっては世界の大勢に幾分(いくぶん)か関係していないとも限らない。しかしながら肝心(かんじん)の当人はそんな事を考えて、国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。国家主義を奨励(しょうれい)するのはいくらしても差支ないが、事実できない事をあたかも国家のためにするごとくに装(よそお)うのは偽りである。――



私の答弁はざっとこんなものでありました。 いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂(うれい)が少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。
貧乏である上に、国が小さい。
したがっていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。けれどもその日本が今が今潰れるとか滅亡(めつぼう)の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。
火事の起らない先に火事装束(しょうぞく)をつけて窮屈な思いをしながら、町内中駈(か)け歩くのと一般であります。必竟ずるにこういう事は実際程度問題で、いよいよ戦争が起った時とか、危急存亡の場合とかになれば、考えられる頭の人、
――考えなくてはいられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行く訳で、個人の自由を束縛(そくばく)し個人の活動を切りつめても、国家のために尽すようになるのは天然自然と云っていいくらいなものです。

だからこの二つの主義はいつでも矛盾して、いつでも撲殺(ぼくさつ)し合うなどというような厄介なものでは万々ないと私は信じているのです。この点についても、もっと詳しく申し上げたいのですけれども時間がないからこのくらいにして切り上げておきます。



ただもう一つご注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です
元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。
詐欺(さぎ)をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。
だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘(あま)んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。
だから国家の平穏(へいおん)な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。その辺は時間がないから今日はそれより以上申上げる訳に参りません。

 私はせっかくのご招待だから今日まかり出て、できるだけ個人の生涯を送らるべきあなたがたに個人主義の必要を説きました。これはあなたがたが世の中へ出られた後、幾分かご参考になるだろうと思うからであります。はたして私のいう事が、あなた方に通じたかどうか、私には分りませんが、もし私の意味に不明のところがあるとすれば、それは私の言い方が足りないか、または悪いかだろうと思います。
で私の云うところに、
もし曖昧(あいまい)の点があるなら、好い加減にきめないで、私の宅までおいで下さい。できるだけはいつでも説明するつもりでありますから。
またそうした手数を尽さないでも、私の本意が充分(じゅうぶん)ご会得になったなら、私の満足はこれに越した事はありません。あまり時間が長くなりますからこれでご免を蒙ります。
底本:「ちくま日本文学全集 夏目漱石」筑摩書房    1992(平成4)年1月20日第1刷発行底本の親本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行入力:真先芳秋校正:かとうかおり1998年11月19日公開2008年10月5日修正青空文庫作成ファイル:

日本改造計画


日本改造計画
小沢一郎
講談社1993/5




小沢一郎は、この日本再生ビジョンにすべてを賭けた。
●主な内容・迷惑な「指導力の欠如」

・権力を行使しない危険・政府は「企業弁護士」か

・首相官邸の機能を強化

・官僚が決定権者か・政党による政策の選挙

・全国を300の「市」に

・生かされていない官僚の頭脳

・誤解されている「吉田ドクトリン

」・国連待機軍をつくれ

・「世界貿易機構」をつくる

・10万人留学生の受け入れ

・個人を大切にする社会

・都市に住宅、地方に雇用

・所得税・住民税を半分に

・自由な人生設計ができない日本人

・高齢者の職場参加を進める

・女性も選択が可能な社会を

・管理型行政からルール型行政へ

・新・教師聖職論






5つ星のうち 2.0 安倍内閣は小沢「改造計画」を実行中?, 2007/7/28
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柴犬 - レビューをすべて見る 
参院選でどこに投票するか迷い、判断材料にしようと思って斜め読みしてみた。

「外交に関する私の一つの信念は、アメリカとの緊密な同盟関係を堅持することである」  あれあれ?  

今回の選挙の民主党のビラでは『アメリカ追従で破綻した小泉-安倍外交路線』とか言ってるけど……。  

その他にも、憲法9条に第三項を付け加えることを提案。
その第三項は、

「第三項 ただし、前二項の規定は、平和創出のために活動する自衛隊を保有すること、 また、要請を受けて国連の指揮下で活動するための国際連合待機軍を保有すること、 さらに国連の指揮下においてこの国際連合待機軍が活動することを妨げない」

 という内容。

 さらに 「規制からの自由」「企業も個人も自己責任で」とか、

「改革には痛みがともなう」 と言った、

どこかで聞いたことがあるようなフレーズが並ぶ。

 『小泉改革』は、この本と言うか、小沢一郎氏の考え方にずいぶん影響を受けていた ということか。

 するとその『小泉改革』の後継者である安倍内閣も、 小沢氏の『日本改造計画』の後継者ということになる。

 小沢氏は、民主党が次の参院選で過半数をとれば、 安倍総理は衆院を解散せざるを得なくなるというような発言をしていたように思う。

 それは結局のところ、法案を全て否決する構えである、ということか。

 小沢氏はなぜ、もともと考え方が近いはずの安倍内閣と徹底的に対立しようとしているのだろうか?

 少なくとも、 『農業の「戸別所得補償制度」』などというマニフェストを掲げる民主党よりは、 よほど現在の自民党と考え方が近いように思えるのだが……。

 この本は1993年刊行のものなので、14年も経てば考え方も変わるということか。  それとも、そんなところが“剛腕”と言われる所以なのか。







確かな見識と無きに等しい反省, 2009/10/3
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偏執狂的読書暦 (東京都足立区) - レビューをすべて見る

民主党政権ということで、小沢氏の国家構想を読み解く上で 非常に参考になる本である。

1993年出版ということだが この時点で国家戦略局の原型となるモデルが紹介されており、 今読んでも十分役立つ内容だと思う。

本書を読んだ上での今後の民主党政権はどうなっていくかだが、 自衛隊や歴史問題は従来の自民党の見解とそう変わらないと思う。

またこの時点で地方分権を提唱している点も評価できる。

不安点は極端な自由貿易化が起こらないかということ。

また 本書では不法入国者の保護を訴えているが、それは国内の雇用 を犠牲にしてまでやることだろうか?

有名な国連中心主義についても書かれている。が、国連待機軍 の整備は今議論するのは民主党にとってプラスにはならないだろう。

最後に小沢氏に日本の舵取りを任せられるか、という点だが、 これは真っ平御免だと言わざるを得ない。

まず本書を書いた時点 で小沢氏が自民党中枢で宇野~宮沢内閣を実質動かしてしていた ことは国民の周知の事実である。

にも拘らず湾岸戦争他の政府の 不手際を全て首相官邸他の制度の不備に求めるのはいかがなものか?

そもそも本書を読んで感じたことは小沢氏が政治改革万能主義者 だということだ。

首相の権力集中やサポート体制の整備は確かに 重要だが、首相も人である以上求められる人物像や思想があるはずだ。

本書はそういった国家観がまったく語られていないし、自らの金脈 問題や過去の反省も一切ない。

本書には「日本人のようにはなりたくない」と言ったアメリカ人の 話が紹介されているが、小沢氏は過去の誠実な日本人の良さを本当に 理解しているのだろうか?彼のいう日本改造が全て完了したとき、 まだその国が日本と呼べるかどうか、はなはだ疑問である。



○まえがき

・日本型民主主義は内外の変化に耐えられなくなってきたため、社会の在り方と国民の意識を変革し、世界に通用する真の民主主義を確率しなければならない。

→真の民主主義とは?

○どのように変革するか・・・

1.政治のリーダーシップを確立する。

それにより、政策決定の過程を明確にし、誰が責任を持ち、何を考え、どういう方向を目指しているのかを国内外に示す必要がある。

2.地方分権。

国家全体として必要不可欠な権限以外はすべて地方に移し、地方の自主性を尊重する。

3.規制の撤廃。

経済活動や社会活動は最低限度のルールを設けるにとどめ、基本的に自由にする。

 3つの改革により、究極の目標は個人の自立である。すなわち真の民主主義の確立である。

 →たとえとして、アメリカのグランドキャニオンに柵がないことを取り上げている。

 人々はいまだに「グランドキャニオン」の周辺に柵をつくり、立ち入り厳禁の立札を立てるよう当局に要求する。

 自ら規制を求め、自由を放棄する。そして、地方は国に依存し、国は、責任を持って政治をリードする者がいない。

  個人に自己責任の自覚を求めること。
  
  地方に権限を移すことによって、地方の自立をうながすことである。
 
  さらに政治のリーダーシップを確立することで、政治家に政治に対する責任を求め、中央の役人には、日常の細かな許認可事務から解放することで、より創造的な、国家レベルの行政を求める。

 これらによってはじめて、個人は組織の駒としてではなく、自由な個人として自己を確立していく。

 自己の確立、民主主義の確立が進めば、さらに改革は進むであろう。




☆ぼくはこんな本を読んできた



ぼくはこんな本を読んできた
立花隆
文芸春秋1995/12
シュエ・タチバナ













○書評・・・ネタばれしないように、商品を紹介し、欲しいと思わせる文章。
      宣伝文。

○思想の技術者・・・知識・技術を万人につたえる人。

 内容をそのまま原文で載せないで、自分の言葉に換えればOKか?

 どこまで引用が可能か?

6000人を一瞬で変えたひと言


6000人を一瞬で変えたひと言
師友塾 http://www.rebirthacademy.com/
大越俊夫
サンマーク出版2003/11







地球の名言 http://www.earth-words.net/

http://www.earth-words.net/human/ookosi-toshio.html
  • つねに成長している人間は、いつもなにかしらの困難に直面している。
    これは、不運だからではなく、
    その人がいつでも新しい事に挑戦しているからだ。

  • 人生は失敗の連続でよい。
    諦めない限り、それは未来につながる意味のある失敗なのだから。

  • 何事も完成してから進んだのでは遅すぎる。
    未完成のまま進み続け、
    だんだんに足りない所を補っていけばいい。

  • 自分で思いついたことは、100%達成可能だから思いつくのだ。

「できていない人ほど、相手のことを鋭く突いてくる。」

「右手で右手はつかめない。自分のことは自分ではわからない。」

「自分の中に奇跡をおこせ。」

「自分の目を信じない人は、すぐに人の噂や人の目を気にする。」

「人を理解するより、信じよう。理解しようとすれば疑惑が生じ、信じれば愛が生まれる。」

「他人との関係で悩んでいるように見えることは、自分との関係で苦しんでいるのかもしれない。自分が自分と付き合えない人は、結局、他人との人間関係もうまく築けないのだ。他人は『仮面』や『演技』でごまかせるだろうが、自分にはウソをつけないから。」

「自己卑下と謙虚とは違う。ボクはダメだという奴ほど、本当は心の底ではうぬぼれているんだ。」

「人を妬むのは、自分が完全燃焼していないからだ。」

「百知って何もしないより、三知って、その三つを実践するほうがいい。」

2010年1月29日金曜日

第3の選択


第3の選択
レスリー・ワトキンズ
デイビッド・アンブローズ
クリストファー・マイルズ
たま出版1981/7










千の風になって

千の風になって
新井満
講談社







千の風になって
作者不明
日本語詞 新井満

私のお墓の前で 泣かないでください

そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ

冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

夜は星になって あならを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください

そこに私はいません 死んでなんかいません

千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって

あの 大きな空を 吹きわたっています

あの 大きな空を 吹きわたっています



☆思考力を高める読書の技術


思考力を高める読書の技術
鷲田小彌太  わしたこやた
日本実業出版社1996/6









思いついたこと
 
・最新の情報に触れる・・・生きた著者の書物を読み、メールする

・メール パレートの法則で重要な二割へ

 何のために、どんなメールをおくり、どんな結果をもとめるのか
 
参考事例 「人生で一番大切なもの」
   
  いまどんな「夢」をお持ちですか?
  ・・・この問題に対し、どんな解決をお望みですか?
  もし同じ夢、共感できる部分があれば協力して、一緒に実現しませんか
  ぼくは多くに人に知ってもらうために広報を受け持ちます。
  そして協力してくれる仲間、応援してくれる仲間を見つけます。
  協力していただき、応援していただける人のことを思うと
   なんかウキウキ、ワクワクしてきます。
  信じ合える仲間にあえる瞬間っていいですよね。
  
  とくに、自分の考えを理解してもらえなかったり、
  提案を受け入れてもらえなかったり、
  話を聞いてもらえなかったりして、
  さびしい思いをしているとき
  
  話を聞いてもらえるだけでも、涙が出るくらいうれしくなります。

  ぼくは、あなたのファンになります。
  これから先どんなことがあっても、
  あなたを信じ、あなたの話を聞きます。
  たとえ過去に、過ちを犯していたとしても、
  これから先あなたがすることが正しく、
  多くの人に役立つと信じています。

  ストーカーとは違いますので、何かあればメールしてくださいね。

  いま、この時代に一緒にいることはけして偶然とは思いません。

  


 


  • 世界・日本
  • 政治家・行政・司法:国、市町村
  • 実業:市町村、町内会、商工会、商店街
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  • 学校:教師と生徒
  • 組織に対して、長と構成員

・思考の技術者とは、多くの人たちのために、利用可能な知識や技術を提供するひと。

「ファーブル 昆虫と暮らして」   独学の勧め

・なんでも書く。平明に書く。

・本は心のオアシスだ。

・ジョン・デューイ   人間性と行為

・清水幾太郎 私の読書と人生

・清水幾太郎 本はどう読むか

・三木清 読書と人生

・清水幾太郎 論文の書き方

・万人が関心を持つようなアクチュアルな問題

  アクチュアル・・・予測:躍動的、ホットな、画期的、

   →アクチュアル【actual】 [形動]現実当面しているさま。現実的。時事的。「―なテーマ

・独自の存在価値。読者を唸らせなければならない。

・できるだけ単純な、控えめな言葉を選ぼう

? 高橋和巳調の文章  激語に包まれた60年代を支配した高橋和巳調の文章

? 村上春樹調の文章  80年代に主流となる村上春樹調の文章

☆☆企画道入門


企画道入門
染矢昇
飛鳥出版社2005/1

2010年1月27日水曜日

仕事ができる人のタイムマネジメント

  1. 仕事ができる人のタイムマネジメント
    行本明説 ゆきもとあきのぶ
    日本タイムマネジメント普及協会
    東洋経済新報社2002/11




○生産性を上げるために

 生産性=質×量÷時間

  1. 初級コース:少ない時間でやる・・・質と量を変えずに(落とさずに)、今までよりも少ない時間(短い時間)でやる。
  2. 中級コース:量を増やす・・・質と投下時間を変えずに、今までよりも仕事の処理量を増やす。
  3. 上級コース:質を上げる・・・量と投下時間を変えずに、今までよりも仕事の質を上げる。

○四つの時間管理

  1. 自分だけでやる仕事 始まり時間
  2. 自分だけでやる仕事 終了時間
  3. 他人と一緒にやる仕事 始まり時間
  4. 単にっと一緒にやる仕事 終了時間

 ほとんど始まる時間のスケジュールを立てても、

 終わる時間が守られていなかったり、

 終わる時間がわからなかったりする。

優先順位

今すぐ後で
自分だけ1番3番
他人と一緒2番4番

突発の仕事も四つに分ける



○段取り上手14のテクニック

  1. 一番大切な仕事は「後で自分一人でやる仕事」である
  2. 「事前にわかる仕事」の優先度、投下時間を把握する
  3. 一週間程度の投下時間の調査をやってみる
  4. 自分一人でやる仕事は開始時間の管理が重要
  5. 手帳には他人との予定だけでなく「自分へのアポイント」も書き込む
  6. 仕事の質を高めるには「すでになされた他人の仕事」を参考にする
  7. 「自由に使える時間」は時間予算の三割しかないことを知る
  8. 一日の予定は30%内に抑えるようにする
  9. ひとつでも多くの仕事をこなすことで専門知識の量は増える
  10. 仕事の目標は必ず具体的な数字に置き換える
  11. よい目標を立てるには投下時間と質と量を明確にする
  12. 一日の始まりは「コンタクト業務」から始める
  13. 二週間に一度は仕事の棚卸しをやってみる
  14. 他人を変えるより自分が変わるほうが簡単である

・仕事とは、目標達成のための、自分と他人との共同作業。

 仕事 業務処理      専門知識

                 仕事の進め方の技術

     情報処理      コミュニケーションの技術

・主観と客観を明確にする・・・仕事の基準











仕事における主観と客観の具体例
仕事の始め(開始)仕事の終わり(期限)
いかに上手く(質)いかに多く(量)
目標(予定)実績(結果)
責任権限
納得調整
専門業際
判断規範(ルール)


  ・それぞれが単独では存在しない、コインの裏表状態。

  ・共通の判断は、コミュニケーション後に合意、確定する。
  

○パレートの法則・・・2割8割の法則

・仕事そのものと、仕事の目的を間違える人が多い。

 例:「支店長の仕事で重要なものは何ですか?」

   「支店の業績拡大です」・・・これは目的、仕事は、目的のために具体的に何をするか! これでは優先順位が混乱してしまう。

・仕事の無駄探しは、仕事の効率化にはならない。

 それよりは、優先順位で重要な二割に集中すべし。

・事前にわかっている仕事のことを、実はわかっていない!

 その仕事の内容 質と量 投下時間 を把握していない

 →優先順位が把握できない

○他人に依存し、自主自立を失えば、仕事をコントロールするすべを失ってしまう。

・専門知識の取得は個人の役割。

 多種多様な専門知識を集積しておくのが組織の役割。

・自分の仕事を全部、紙に書き出してみる。

○ブレインマップ

 頭の中にあることしかできない

  →頭の中にあることはすべて実現できる

   サードキーワード                  サードキーワード

          セカンドキーワード        セカンドキーワード

                  マザーキーワード

                   セカンドキーワード

        サードキーワード  サードキーワード  サードキーワード

  実施のポイント

  1. キーワード(原則として)単語を書き出す
  2. マザーキーワードから連想される次のキーワード(セカンドキーワード)を書き出す
  3. 以下、順次セカンドキーワードから連想されるサードキーワードを書き出しする
  4. 適当なところ(5キーワードくらい)で連想をストップする。出来上がったブレインマップを概観し、関連があるキーワードをラインで結ぶ。
  5. 以上でブレインマップが完成。

  評価・判断ポイント

  1. ラインが多く集まっているキーエアー度がアンサーキーワードとなる。
  2. アンサーキーワードを優先順位(ライン数)順にリストアップすると、マザーキーワードの本質が見えてくる

2010年1月26日火曜日

あなたの組織を10倍にする方法

あなたの組織を10倍にする方法
日本MLM総合研究所
小川忠洋
ダイレクト出版

○成功のポイント
  1. マインド:意志
  2. スキル:技術・知識
  3. 人間性

・成功するためには本気で継続的に知識技術を勉強する必要がある

・優先順位を正しく判断しているか?

  1. いま、お金を何につかうべきか?
  2. いま、時間を何につかうべきか?
  3. いま、誰と付き合うべきか?

・稼ぐため、成功するため、夢を実現するため

 あなたは人生を変えるために必死になっていますか?

・価値観をともなう目標設定をしていますか?

 逆に言えば、どうでもいい目標を設定しても意味がない

○あなたの価値観は?

 チェックポイント

  1. あなたの憧れの人は?その理由は?
  2. あなたが余命1年なら何をしますか?
  3. あなたが100年生きられるとしたら何をしますか?
  4. あなたは何のためにビジネスをするのですか?
  5. あなたは誰のためにビジネスをするのですか?
  6. あなたはどんな人間になりたいのですか?

・上手くいっている時、「なぜ上手くいっているのか」という原因を明確にしておくことが、不調時に役に立つ。

・リー・ミルティア

 内面から成功しなさい

 生きる情熱と生きがいをもちなさい

 笑いなさい

 寛大になりなさい


○ビジネスの基本

  1. 集客・・・見込み客を集める→広告、イベント
  2. セールス・・・集めた見込み客に販売する・・・見込み客のフォロー:5回以上のフォローが必要
  3. リピート・・・お客が再度、購入する機会を増やす


2010年1月25日月曜日

バカ売れオンラインショップの作り方

バカ売れオンラインショップの作り方
山田雅彦
翔泳社 (2004/2/24)

買物じょうず  休止中












・オンラインショップの作り方



  1. レンタルサーバーを借りる→店舗を賃借する
  2. 商品画像を貼り付けたホームページをつくる→商品を棚に陳列する
  3. 「買い物かご」「購入フォーム」を設置する→「買い物かご」「レジ」を設置する
  4. とりあえず大手検索サイトに登録する→お店の入り口に看板を出す

○オンラインショップ運営の基礎

・お客様との関係を深めていく8ステップ

  1. お店(オンラインショップ)の存在に気付いてもらう
  2. お店に訪問(アクセス)していただく
  3. どういうお店かわかっていただく
  4. お店のファンになっていただく
  5. リアル店舗がある場合は、できれば来店していただく
  6. 買い物をしていただく
  7. 繰り返し買い物をしていただく
  8. 新しいお客様を紹介していただく

・オンラインショップ訪問の3つの動機

  1. 買う気マンマン・・・スムーズに買い物ができるように
  2. 情報集集中・・・たくさんの情報を提供する
  3. その他:プレゼント、なんとなく・・・格安情報、限定情報で今買うメリットを知らせる

・広告など、時間、作業を記録して時間単価を出す

○ダイレクトマーケティングの基礎知識





DM Facttory  

 ・DMの基本戦略

  1. 見込み客の発見
  2. 見込み客の購入促進
  3. 一般顧客の固定客化
  4. 固定客の維持
  5. 情報伝達および啓蒙
  6. 営業サポート
  7. 調査およびリサーチ

・DM成功の三大要素

  1. オファー:提案・特典
  2. リスト:名簿
  3. クリエイティブ:表現

・心にも、形にも残るDM カード 名刺 

・SEOの第一歩

 自店の商品やサービスをお客様が使いそうなキーワード(単語)を用いて説明する。

・キーワードの見つけ方

 グーグル「アドワーズ広告」を利用する 

  1. 広告を表示するためのキーワードとして、列挙したすべてのキーワードを入力する
  2. 「見積もり計算」を実行すると一日あたりの予想クリック数(多いほうが人気が高いと思われる)が算出されるので、ある程度の優先順位が決められる
  3. 実際に広告表示を始めると、キーワードごとの「表示回数」が出るので、どのキーワードを優先にすれば良いのか一目でわかる

   2までは無料。試してもっと良いキーワードが見つかることもある。

・PPC広告を利用する

 Pay Per Click ・・・クリックごとに課金される

○メールマガジン三つの役割

  1. 見込み客集め
  2. 見込み客への情報提供と販売
  3. 既存客への情報提供と販売

・メールマガジンの配信方法

  1. 自社配信:送信ソフト、ASP
  2. メールスタンドからの配信:まぐまぐ、メルマなど
  3. ショッピングモールなどから配信:楽天、ビターズなど

○オンラインショップにも行列ができる店がある!

  1. オンラインショップが発行するメルマガの発行部数
  2. 店長日記などのアクセスカウンター
  3. オークションにおける「良い」評価の数

○顔写真だけではショップの顔が見えない 

 ・「想い」を表現してこそ「顔」が見え、顔への共感者がファンになる 

 ・必要以上に好かれようとしない

 ・ファンには重点的にサービスする

 ・想いが伝わることが何よりの財産○商品説明の基本は文章その商品にまつわるウンチクを語るその商品を開発するまでの(探し出すまでの)苦労話を淡々と述べる

 ・学者の話を引用したり、テレビ番組や芸能人の名前を出して権威づけする

 ・希少性を訴える

 ・その商品を購入するメリットを挙げる

 ・逆に、その商品を購入しないデメリットを示す

 

 ・想像力をかきたてるには、文章が主で写真が従くらいの気持ちで

 ・興味そそる「お客様の声」のはがき

  1. お客様の自己紹介(その人が置かれている状況や、抱えていた問題等も含む)
  2. 商品との出会い、購入のきっかけ
  3. 商品名
  4. 感想、効果、感動、御礼


似顔絵ショールーム

・オンラインショップは贈り物に適している

○オークションサイトの賢い使い方

 広告宣伝・販売促進だけでなく、テストマーケティングにも使える

○「共同購入」出品で広告宣伝・販売促進

 「共同購入」・・・ギャザリング。購入予約数が多くなるに従って、その価格が下がっていく仕組み。

○アフィリエイト・プログラムで販売のチャネルを増やす

 ほぼ完全歩合で自店のお客様を増やせる



2010年1月24日日曜日

小さな会社の逆転戦略 最強ブログ営業術
技術評論社2005/4
横須賀てるひさ
資格起業家横須賀てるひさの公式ブログ
HP行政書士横須賀てるひさの公式サイト








・無料で相談を受け、契約書や許可書類などの仕事が発生したら、その仕事を有料で受けるシステム

→HPを最初に無料でつくる。HPとブログの作り方を無料で公開。その上でもっとよくしたい人はプロを紹介。
 ランキングやサイト集に登録 
 チラシなど作成 デザイン キャラクター 
 プロの仲間を集め、紹介する  専門学校 


・ブログを通じてネットで知り合い、きっかけをつくり、直接会って人脈にする。

→直接会って、ネットの住民に巻き込む。HPを持っていれば、ブログを通してリンクでつながりをもち、HPがなければ作って、ネットの住民にしてしまう。
 ネットの住民にする理由:
①アピール いいもの いいサービス いい人 いい会社 いいお店を多くの人に知ってもらうため 

②一度だけの出会いでなく、記録に残り、ブログやメールを通せば気軽に声をかけることができる 

③よい仲間とたくさん知りあうことができる 


・知名度アップ マスコミ掲載

→自分でマスコミを作る
地域主体の広報サイト cfシティーサーチ 明確な方針とルールが必要 独善的にならないように
全国展開しているサイトは、地域の情報が希薄 ex出前サイト 地元の商店の登録がなく、チェーン店ばかり
地元の商店のサービス 商品 が検索できるようにしたい 在庫状況も
商店街の仮想空間 地元の商店の地図がそこらじゅうに貼ってあるように、あたりまえの存在になる


・ブログはわが社の宣伝&営業マン  広報も

・すぐれた情報収集ツールはすぐれた集客ツール

  ブログで、人脈をつくり、情報を収集。
  ブログはメールやHPより情報の鮮度がいい。
  相談会、異業種交流会を開催

→ネット上で博覧会 タイ焼き大会 たこ焼き大会
動画や写真でアピール
大会の参加方式 フォーマットを決め投稿しやすくする
音楽祭
学園祭のノリで
平和運動など
一度起こせばずっと残せる
ビックサイトやモーターショーなどをネットでやって残しておく



・ブログを自分自身のブランドをつくるために活用

・ブログの特徴
 1.日付が記された情報が時系列に並んで更新される
 2.従来のホームページにはないコメント機能、トラックバック機能がある

・ホームページ メルマガ ブログ 長所を理解して ミックスして活用
 メーリングリスト

・ブログの仕組み
 
 ・トップページが一番重要・・・第一印象を決める!
 
 ・投稿記事・・・記事 写真 わかりやすさ

 ・プロフィール・・サブコンテンツで一番重要

 ・新着コメント・新着トラックバック
 
 ・その他フリーページ  カレンダーなど

○ブログとは自分自身をインターネット上に投影したもの。
つまり、インターネット上の自分自身である。


○ブログのブランド力
  1. アクセス数
  2. 投稿記事の内容
  3. 運営者自身のブランド力
  4. コメント・トラックバックの数

○おすすめブログのバックアップソフト




GetHTMLW

GETHTMLW インストール方法



・他のブログと差別化をする・・・オリジナルの商品、コンテンツを持つ

・勝てるテーマで勝負  テーマの絞り込み

・自分自身のキャラクターを設定
  自分の理想像を描くこと

  単なる日記では意味がない。買いたい、行きたいと思わせるブログをつくろう。

・ビジネス系の実録に絞り切る

 実録としての読者やお客様が読みたいのは、仕事の内容、世界観、そしてさまざまなノウハウや情報なのです。

 余計なことを書くことによって、読者やお客様が次第に離れてしまっているのです。

○事例

マンダラは何を語っているか

マンダラは何を語っているか
講談社新書1991/9
真鍋俊照

1939年、東京生まれ。高野山大学仏教学科卒業。東北大学文学部研究科生修了。仏教美術史専攻。東北大学文学部助手、奈良国立文化財研究所を経て、現在、神奈川県立金沢文庫副文庫長。東海大学講師、画家。著書に、『密教曼茶羅の研究』――美術出版者、『弘法大師紀行』――平凡者、『曼茶羅美の世界』――人文書院、訳書に、『東アジアの美術』――白水社――など多数。

<hr>

密教思想が説く「悟りの世界」「聖なる空間」の絢爛華麗なイメージ。マンダラに秘められたほとけの智慧に近づくことは、いかにして可能か。

観念・・・真理を体得する

涅槃・・・最終境地

醍醐・・・涅槃経 五味相生の譬


法華経 法華七喩  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でもこの様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。

1.三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)


2.長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)


3.三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)


4.化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)


5.衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)


6.髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)


7.良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

法華経の影響を受けた思想家

近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。主義の左右を問わず、近代の著名な法華経信仰者の人生に共通するのは、小市民的な栄達を嫌い、どこまでも己の理想のみに殉じていこうとする非妥協的な態度にあると言えそうである。宮沢賢治(詩人・童話作家)や高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(右派革命家)、石原莞爾(軍人・関東軍参謀)らがよく知られたその例といわれている。

日蓮 南無妙法蓮華経

法華経 座禅 http://enlighten.fc2web.com/jigage.html

娑婆

三昧




妙法蓮華經如來壽量品第十六(法華経) (みょうほうれんげきょう にょらいじゅりょうほんだいじゅうろく ほけきょう)

私(お釈迦様)が仏になってからというものは、数えきれないほどの永い永い歳月が経っている。(久遠実成の仏陀)

ずっと遠い昔より仏として法を説いてきた。そして無数億の数え切れないほどのたくさんの者を教化して仏道に入らしめた。そうしてその時以来無量劫である。


衆生に本当の感化を与えたいが故に、方便で涅槃を現じた。しかし、実には滅してはおらず、常にこの娑婆世界でずっと法を説き続けているのである。

私(お釈迦様)は今も常に娑婆世界に居るけれども、諸々の神通力で、心がひっくり返った(自己を中心に物事を見る)衆生には仏が近くに居ても私が見えないようにしている。

しかし、私(お釈迦様)が居なくなってみると、仏の慈悲の広大であったことを思い出し、私に恋慕の心を抱いて逢いたいという心が起きる。そこで仏骨を集めてそれに供養する。

そして教えを思い出しその教えによって信伏するようになり、心も柔軟で素直になると、一心に仏と同じ境界になりたいと身命をも惜しまないという決心がつく。

そういう人たちのためには、私(お釈迦様)は弟子とともに現れて、私は常にここに居ると語る。

方便力によって、ある時は滅を現し、またある時は不滅を現すのである。また娑婆世界以外の場所でも誰かが仏を敬い、どうか教えを聴きたい、法を学びたいという者があれば、

私(お釈迦様)はまたそこにおもむいて無上の法を説くこともある。しかし君たちはこの法を聴くことなく、私が滅度したと思いこんでいる。

世間の人々を見ると、苦しみの海の中に沈んでいる。それで私(お釈迦様)は自分の姿を見せないで、仏の教えを得たいという渇仰の心を起こさせるのである。(いつでも仏と逢っていると、いつでも教えを聴けると思い、なかなか一心に教えを求め、道を求めない。)

そうして、どうしても仏様に逢いたいと恋慕の心を起せば、すぐさま現れてその人の為に法を説くのである。仏の不思議な力はこの通りである。実は阿僧祇劫という無限に永い年月の間、


私(お釈迦様)は娑婆世界及び他の国土に常に居て教えを与え、救いを与えているのである。この世の終りがきて壊れ果てる時代に入り、世界一面に火が起こって全てのものが焼き尽くされても、

私の境界から見ればそのありのままが浄土であり、安穏な世界であり、常に天人で満ちあふれ、美しい花園の中の御殿は、皆種々の宝をもって飾っていて、

宝の樹木は華や実をいっぱいにつけた、衆生が楽しく遊ぶところである。天人たちは天の鼓を打っていろいろの音楽を奏し、

美しい白蓮の華を雨のように降らせて、仏や大勢の人々の上にふりかける。このような私の浄土は壊れないのであるが、大勢の人びとは焼け尽きて、

色々な憂いや怖れが充満した世の中であると見ている。無明の人びとはその無明ゆえ悪業の因縁によって、

無限に永い歳月を経ても三宝の名も聞くことがない。諸々の功徳を修して、心が柔和で素直な者は、

私(お釈迦様)がいつでもこの世に居て、教えを説いていることがわかるのである。私は、時にはこういう者の為に仏の生命は限りないということを説くのである。

しかし、久しい時を経てやっと仏にまみえることができた人に対しては、仏に逢って仏の教えを聴くということはいかに難しいかを説く。私(お釈迦様)の智慧はこのように自由自在である。私の智慧の光が無限に照り輝き、

私の寿命が無数劫の永きにわたるのは、私が久しいあいだ善業を積んで得た結果にほかならない。真に智慧のある者はこれを疑ってはならない。

永遠に無明を尽きさせるべきである。仏である私(お釈迦様)の言葉は真実であって、決して偽りはない。たとえば優れた智慧をもった医師が、自分の子供が毒にあてられて気が狂い、父の与えた薬を飲もうとしないとき、それを治すために、

方便をもってしばらく遠くへ旅行し、実際は生きているのだけれども、お前の父は死んだと言って、子供に親を慕う心持ちを起させて薬を飲む気にさせ、その薬が効いて子供の病気が治ればまた帰ってきて親子の対面をしたとする。この場合は、誰も父なる医者を嘘つきとは言わないであろう。そのように仏は世の父であり、色々な方便を用いて教えを説くのであるが、それは一切衆生を救おうという心から出ているのである。


凡夫の心は転倒しているから実在していても滅すと言って仏に逢いたいとの渇仰の心を起させるが、また絶えず仏の姿を見ていると、凡夫はいつでも逢えると思って、わがままで自分勝手な心を起して、真剣に道を求め、教えを求めるという心がなくなり、


放逸となり、五欲に執着し、地獄・餓鬼・畜生の境界に堕ちてしまうのである。仏はいつでも衆生が道を行じているか、行じていないかを知って、

その相手の力に応じて法を説く。いつもいつも何とかして衆生を

無上の仏の道に入らせて、仏の境界に到達させてあげようと念じているのである。



真実
世尊が霊鷲山にいらっしゃった時のこと、名高い遊行者達が集まる園に行かれた。そのとき遊行者達の間には、この世の真実とは何であるか、ということが議論されていた。

 世尊は言われた。「遊行者達よ、私はこの世における四つの真実ということを自らさとって説いている。

それは、第一に、すべての生きとし生けるものは無明から生まれるということ。

また第二にすべて五欲(財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲)の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、変化(移り変わる)するものであるということ。



過去を追うことなかれ。未来を追うことなかれ過去はすでに過ぎ去れり。未来はいまだ来ざりきゆえに、ただ今なすべきことを、そのところにおいてよく観察し揺らぐことなく、動ずることなく、よく見極めて実践せよただ今日なすべきことを、よくなせ誰か明日の死あることを知らん
 ――賢愚経



また第三にすべての存在は、無常であり、苦しみであり、変化(移り変わる)するものであるということ。

また第四に、我も我が所有ということもないということ。

この四つはどれも真実であって虚妄(いつわりではない)。私はこの四つの真実を自らさとって説いている。」



三法印とは
   
諸行無常(しょぎょうむじょう)・・・・この世の中で常なるものは何もなく絶えず変化している。      
諸法無我(しょほうむが)・・・・・・・すべてのものには我となる主体がない。   
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)・・・・・・一切のとらわれやこだわりを離れた姿。   

一切皆苦(いっさいかいく)・・・・・・一切は皆苦であること。これをいれて『四法印』ともいう。   


六道
地獄界・・・・・・怒りの心
餓鬼界・・・・・・貪欲な心
畜生界・・・・・・愚かな心
修羅界・・・・・・争いの心
人界・・・・・・・・穏やかな心
天上界・・・・・・喜びで満たされている心


四聖

声聞界・・・・・・仏様の教えを受けて世のわずらいを離れた者

縁覚界・・・・・・仏様の教えを受けて更に自分の日々出合うところの出来事と思い合わせてその縁に因って覚るように修行する人

菩薩界・・・・・・自らも仏を目指して修行しながらも他者を慈悲の心で先に救おうとする人

仏界・・・・・・・・絶対平安の境地にあり衆生を大慈大悲で救済する境界



四聖諦とは
苦諦・・・・・・人生はすべて苦でありその実態を見つめよ――四苦八苦(※)
集諦・・・・・・人々は無知と煩悩によりさまざまな因をつくっている
滅諦・・・・・・一切の苦を滅し尽くした境地
道諦・・・・・・滅にいたるべき道。苦を離れる道。――八正道、(下記参照)六波羅蜜(※)


八正道とは お釈迦様は「さとり」へ至るための聖なる八つの実践道を説かれました。
正見(しょうけん)・・・・・・・・・正しい見方かた、見解
正思惟(しょうしゆい)・・・・・正しい考え方、思考
正語(しょうご)・・・・・・・・・・正しい言い方、表現
正業(しょうごう)・・・・・・・・・正しい行い、行為
正命(しょうみょう)・・・・・・・正しい暮らし方、生活
正精進(しょうしょうじん)・・・正しい精進、努力
正念(しょうねん)・・・・・・・・正しい心のもちかた、専念
正定(しょうじょう)・・・・・・・・正しい心の集中の仕方、禅定



六波羅蜜

六度ともいい、「度」の字は渡の字と同じ意味で、わたす、わたるということです。下記の六つの修行は、人々を迷いのこの岸より、悟りの彼の岸に渡す修行です。

布施(ふせ)・・・・・・・財施(物を施す)、法施(教えを施す)、無畏施(畏れない心を施す)。

持戒(じかい)・・・・・・仏様の戒を守る。

忍辱(にんにく)・・・・・どんな苦しみをも忍び、どんなに辱められてもそれに耐えること。

精進(しょうじん)・・・・正しい修行を不断に継続すること。

禅定(ぜんじょう)・・・・妄想や雑念から起こる心の動揺を去って念を一所に定めること。

智慧(ちえ)・・・・・・・仏様の悟りの智慧を修めること布施行は「無所得」で何かの報酬を求めてはいけない。忍辱(にんにく)行は、ものや名誉に囚われず「空」に住して実践する。



四無量心

仏様の徳の一つで、大きな四つの心

慈心(じしん)・・・・・・・多くの人の幸福を願う暖かい心

悲心(ひしん)・・・・・・・多くの人の苦しみを除こうとする大きな心

喜心(きしん)・・・・・・・多くの人の幸福を共に喜ぶ広い心

捨心(しゃしん)・・・・・・自分がほねおったことに報いを求めない。

              人の過ちを忘れて許す大きな心


仏教悩み相談室 http://enlighten.fc2web.com/index.html

グノーシス 古代キリスト教の異端思想


グノーシス 古代キリスト教の異端思想
講談社選書メチエ2004/10
筒井賢治




モーツァルト アヴェ・ウェールム・コルプス K618 合唱宗教曲

処女マリアより生まれたまことの体よ

あなたに挨拶します

あなたは人間のために十字架にかけられ、

まことに苦しみ、

いけにえにされ、

その脇腹は突き刺され、

水と血がそこから流れ出ました

死の試練として、

あなたをあらかじめ私たちに味わわせてください

・1945年に発見された 「 ナグ・ハマディ文書 」

・ キリスト仮現論

・ 大いなるセツ第二の教え

 ・・・・十字架を担いだのは別の者、シモンであった。

・ アドルフ・フォン・ハルナック 古代キリスト教史研究

・ マルキオン

・ トルストイ 「 惨めな者たちと憎まれた者たち 」

・ ヴァレンティノス派

 プトレマイオス

・ バシレイデース

・ ユスティノス

・ ヒッポリュトス 「 全異端反駁 」

・ テルトゥリアヌス 「 マルキオン反駁 」

・ アウグスティヌス  

  マニ教

○グノーシスの定義  自己の神的本質を認識すること

  1. 反宇宙的二元論
  2. 人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信
  3. 人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在

・ 知恵文学

 コヘレトの言葉 (伝動の書)

何という空しさ、

なんという空しさ、

すべては空しい

太陽の下、

人は苦労するが、

すべての労苦も何になろう

・・・

かつてあったことは、

これからもあり、

かつて起こったことは、

これからも起こる

太陽の下、

新しいものは何一つない

・・・

・ マンダ教  マンダ=認識=グノーシス

 「 ギンザー 」

 

 「 ヘルメス文書 」

 「 コルプス・ヘルメティクム 」

 「 ポイマンドレース 」

 「 アクレピオス 」

・ コリント教会  

  コリント書

・ 「 フィリポ福音書 」 キリスト教グノーシス文献の華

人はまず死に、それから甦るのだ、

という人は間違っている。

人は、まず生きているうちに復活を受けなければ、

死んだときに何も受けないだろう。

・ ヨハネ福音書 

 「はじめに言葉があった」  「言葉」が「光」と言い換えられた

・ 魔術師シモン  シモン・マゴス

・カルポクラテース ・・・始祖   カルポクラテース派

 息子 エピファーネス 「 正義について 」 アレクサンドリアのクレメンスの引用によって知られる

 「カルポクラテース派は、社会のルールや伝統的な因習といったものを徹底的に相対化しようとしていた。それらは、結局、神ではなく人間が決めたことにすぎないと主張」

 輪廻転生 「この世においてすべてを体験しておかなければ、つまり万が一にも何か未体験のものが残っているなら、魂は再び転生を強いられる、つまり救済されることがない」

 性的放縦の実践

 性的な熱狂的無法行為 オルギア

 エイレナイオス 「 異端反駁 」

・オルフェウス=ピタゴラス教 輪廻転生

・ ハンス・ヨナス 哲学者

 「 グノーシスと古代末期の精神」

   「精神」なら、どこでも誰でも、人間さえいれば存在する。

・ K・ルドルフ 「 グノーシス 」

・アリストテレス 「 形而上学 」

  「人間は本性的に『知る』ことを求める」

・ アウグスティヌス 「独白録」

 哲学の唯一の目的を、「神と自分の魂を「知る」こと、と定義した。

☆☆良寛さんの愛語


良寛さんの愛語
自由訳 新井満
考古堂2008/6





愛語、というものがあります

相手をやさしく思いやる言葉という意味です

それは、相手をやさしく思いやる心

言わば愛心から、生まれてきます

まずは、心があって

次にその心から、言葉が

生まれてくるというわけです

あたたかな春風のような愛心

さあ、相手をやさしく思いやる

愛心を持ちましょう

そして

愛心から発せられた愛語を

あの人に、そっとかけてあげましょう

「お変わりございませんか・・・」

世の中には

こんな言葉をかけてくれる人もいます

身体の具合はどうなのだろう

何か困っていることはないのだろうか

何か悩んでいることはないのだろうか

相手のことを気づかう

これも立派な愛語です

では、相手の何について

気づかっているのでしょう

それは、いのち

いのちが、すべての基本です

相手のいのち、即ち相手の

健康と平安を気づかう愛心から

この愛語は生まれました

さあ今日も

あの人に、さりげなく

愛語をかけてあげましょう

「お変わりございませんか・・・」

善いことをした人がいたら

すすんで誉めてあげましょう

「よくやったねえ!」

「すばらしいねえ!」

これも愛語です

世の中には不運な人もいます

善いことに恵まれなかったり

努力したのに報われなかったり

ひどい災難に遭ってしまったり

もし、そんな人がいたら、なぐさめてあげましょう

いたわってあげましょう

手をとりあって、共に涙を流しながら

「たいへんでしたねえ・・・」

「つらいことでしたねえ・・・」

これも愛語です

類が友を呼ぶように

愛語は、もう一つ別の愛語を

呼び寄せます

愛語を発していると

それまで気づかなかった意外なことに

気づくようになります

それは、他人が発している愛語

その背後にかくれている愛心です

そのことに気がつくと

感謝の心が広がります

ありがたいなあ

かたじけないなあ

もったいないなあ

愛語は、新たな愛語を呼び

愛心は、新たな愛心を増やします

よろこびの輪が

大きく広がります

ある日

ある人から、直接

愛語を用いられたとしましょうか

それはとても嬉しいことですね

ありがたいことですね

なぜかといえば

愛語の向こうに、その人の

愛心が感じられるからです

こちらのことを

やさしく思いやってくれている

あの人の心のあたたかさが

直接、伝わってくるからです

すると、思わず笑顔が

浮かんできます

(生きていてよかったなあ・・・)

という気分になってきます

愛心は愛語を生み

さらに笑顔と幸せを

つくってくれます

愛語には

大きな力があります

世の中を変えてしまうような

時代を変えてしまうような

とてつもない力を

秘めています

どうかそのことを

忘れないでくださいね

2010年1月23日土曜日

☆アウト・オン・ア・リム

アウト・オン・ア・リム―愛さえも越えて
シャーリー・マクレーン
地勇社1986

チャネリング
ニューエイジ
スピリチュアル
心霊主義
輪廻転生
「木の上の果実を取るためには、枝の先まで行かなくては。




 今までに私が学んだ重要なことは、この世に現実などほんとうは存在しないということです。

 私たちが現実として見ているものはすべて、私たちがどうとるかという認識の問題だとわかったのです。

 人生をどのように認識しているか、その認識のしかたこそがすべてなのです。

いいかえれば、わたしたちの人生はわたしたちの見ている世界そのものによって決まるのではなく、

自分がどのように世界を見ているかによって決まるのです。

だからこそ、前向きで実り多き人生は、私たち個人一人ひとりの生き方にかかっているのです。

自分こそが自分の人生の実現者なのです。

また自分こそが自分の先生なのです。

 あなた自身が神であることに気付いてください。

 あなた自身が愛です。

 あなた自身が光りなのです。

 そして、私たちの自由意思こそが、自分の内なる神のすべてを発見していく、学びの道なのです。

 私たちは、内なる神の存在を生まれながらに知っているのです。

 その知識をどうぞくもらせないでください。

 自分を信じ、生まれながらに内に宿る愛と光を信じてください。

 そうすれば、あなたの人生そのものが愛と光になるでしょう。

 神の国はあなた自身の内にあります。

先生は他の誰でもない、あなた自身なのです。

他人を先生と仰ぐのはやめましょう。

他の人を崇拝する必要もありません。

すべてはあなた自身です。

あなたは今のままで完璧です。

あなたと神はひとつなのです。

私から皆さんに愛と光を送ります。

ヨガ・・・四つの取組姿勢 信頼、決意、忍耐、愛

バカヴァッド・ギーター

死者の書

カバラ

オカルト

ラマ教

○人生の本当の意味や目的が自分の魂をより高めることだと本当にわかったとき、人はより責任ある行動をとり、自分自身にも他人にももっと思いやりを持つことができる。

エドガー・ケーシー

アカシックレコード

忘却のヴェール

リーディング

○人を非難することなかれ、他人を非難すれば、同じ立場に陥るだろう。

○自由意思の尊重

○すべての答えは自分の内にある。目を開いて見よ。

○「自分自身を探しているんでしょ?」

スツレ・ヨハンセン

アンブレス

霊媒師

精霊

○すべての人間は頭脳と肉体と霊魂の三つを備えた存在である。

オリバー・ロッジ

○「汝自身を知れ。勇気を出して自分を見つめよ。そうすれば、自由は汝のものとなる。」

ピーター・セラーズ

レックス・ケナマー

○「人間は自分がすべての始まりから存在してきたということと、自分の内に真理があるということを、受け容れないからじゃ。言いかえれば、人間が自分の責任を認めることを拒否しているからじゃよ。人間は神と共に宇宙の創造主なのだ。」

○「人間が自分自身も心理の一部であると悟った時に、初めて真理が明らかになるのじゃ」

p213

○「わたしの言っていることに対し、世俗の宗教は意義を申し立てるだろう。

宗教は宗教を教えているのであって、精神性を教えてはいないからだ。

宗教はほとんどの場合、人間を搾取しているのだ。

俗界の宗教は基本的には正しい道を進んでいるとは言えよう。

ところが多くの宗教は、

一人ひとりの人間が、基本的に自分の運命を作り、

支配しているということを教えていない。

逆に、紙が人の運命を支配していると教えている。

私が言いたいのは、すべての人は神と共に創造主なんだということじゃ。

こういうことは、教会や宗教と相容れないのさ。

なぜなら彼らは人類を支配したいからさ。

自己と前世と自分の生まれてきた目的を知ることにより、

人類は自らを救えるということを宗教は教えたくないのじゃ。」

ツインソウル

ソウルメイト

地球外生物

○人間の中にすでに神の精神的知識がすでにある。

○「汝は自分の感覚を信頼することを学ばななくてはいけないのだ。

論理的な面からだけ物事にアプローチするのはやめなくてはいけない。

知力は限られている。

感覚は限りない力を持つ。

自分の心を信ずるがよい。

自分の直感を信じろと言ってもいいがね。」

△「自分の心の命ずるところに従えば、いつもうまくいくということ?」

○「いや、必ずしもそうではない。

間違うこともあるし、恐れから危険な感じがする場合もあるが、

それを克服しなくてはならないのだ。

本当に自分の奥底にある気持ちを大事にすることだ。

人間というものは基本的には善なのだから、そのよい心というものに、

チャンスを与えてやらなくてはな。

人生は神の思考を具現するものであり、神は愛なのじゃ。」

○「真理というものは、各々の霊魂が時代を通して進化しているということじゃよ。

また真理ということは、各々が自己の責任を持って自分の神性を発揮することだとも言える。

宇宙正義

△「偏見を持たないで、心を開くことが大切だと、どうしたら人にわからせることができのかしら?」

○「そんなこと必要はないんだ。

心を開いている人は、自分の見方をただ言っているればよいのだ。

懐疑的な人には懐疑的である自由を認めてやればよい。

もし、他人に押し付けようとするなら、それはおせっかいもいいところだ。

疑う人には疑い続ける権利を与えてあげなさい、

彼らにもいつか本当のことを知りたいという時が来るだろう。

用意ができた時に自分で探し始めるだろう。

人々が論理的な思考システムの中にとどまっていたかったり、

自分の認識している現実の中にいたいのなら、

それはそれで安全なことなんだ。

そうした方が、現在持っている権力の中で自我が安心していられるということさ。

それがどんな形の権力であろうともね。

彼らは認識を変えようとしないだろうし、

自分自身を変える必要もなければ、意識を広げる必要もないだろう。」


△「なえ戦争は起こるのかしら、なぜ人は他人を征服しようとするのかした?」

○他人を征服しなくてはいけないと駆り立てられる人は自分の中の真理に気付いていないのじゃ。

だが、もし心の閉ざされた征服者が自分を知り、自分の内部の意識に気がつけば、征服しようとする気はすぐなくなってしまうのだよ。

自分がいかに大きいか気がつけば他の人を征服して自分を不滅にする必要がないと悟るのさ。

人間の心が多くの次元に広がっていくことを経験すると、人はもっと平和になり、ますます満たされた感じがするのだよ。

自分が知的に他人より優れていると思い込んでいる人は、なかなかそのような心境になるのは難しい。

教義でがんじがらめになっている宗教は無条件な権威崇拝、それも個人の外にある権威を押しつけるので、偏狭と言わざるを得ないのだよ。

汝自身が神であるのだ。

そして、すでに自分が神であることを知っているのだよ。

重要なことは、いつでも自分の神性を意識し、それに従って行動することじゃ。」

輪廻転生の思想家

プラトン

ソクラテス

ピタゴラス

プルターク

17世紀

ミルトン

ドライデン

ジョセフ・アディソン

18世紀

ニュートン

フランクリン

ボルテール

カント

ショーペンハウエル

デビッド・ヒューム

ゲーテ

エマーソン

ソロー

ウォルト・ホイットマン

「草の葉」

マルコム・クローリー

トーマス・ジェファーソン

カミル・フラマリオン

グスタフ・ストムベルク

20世紀

ヘンリー・ミラー

パール・バック

トーマス・ウルフ

ジャック・ロンドン

マーク・トウェイン

ルイザ・メイ

オルコット

コナン・ドイル

ロイド・ジョージ

ヘンリー・フォード

モンドリアン

クレー

カンディスキー

ヘルマン・ヘッセ

リルケ

ロバート・フロスト

ジョン・エリス・マクタガルト

「人間の不滅と前世」

ヘンレン・ウォムバック

「前世を再現する」

逆行催眠

ロバート・ロッジ

○553年  ニカイア会議  教会の支配を強めるために輪廻転生の思想を削除してしまった

 「魂が現生以前にも存在したことを信じる者は、無神論者である。」

  言葉で敵をつくりだす。赤狩り、マッカーシズム、差別

 人の運命は教会の支配下にある・・・教会の主張

 キリストは一人ひとりが自分の運命に責任があると言っている。

神のみが人を裁ける・・・・人は自分自身でしか自分を裁くことはできない。心から思わない限り反省はありえない。

ジミー・カーター

フォン・デニケン  神の馬車

ピラミッド

ストーンヘッジ

マチュピチュ

旧約聖書 エゼキエル書

ペルー ナスカ平原

ティアフアナコ占星暦

サクサファマン

エスキモーの神話

サンダーバード

マヤの伝説

マハバーラタ

タンティウナ

カンティウナ

サマランガヴァ・ストラダラ

カール・セガン

呼吸瞑想

バックミンスター・フラー

ニール・セダカ

○よく働き、嘘をつかず、他人を傷つけず。これだけさ。これが僕の生きかたさ。僕は毎日この三カ条を心に刻みつけるんだ。これを忘れないように修行したんだよ。」

○「幸福とは、自分が何を信じているか知っていることだと思うんだ。」

△自分を疑わないということは、自分がいつも正しいと信じ込んでしまって危険ではないのかしら?」

○「自分を疑わないことと自分をいつも正しいと思うのとは違うよ。

自分が正しいと思い込んでいる人は、他の人も自分と同じように考えるべきだと思っているよ。」

△「わたしも同じことをしているのかしら?・・・自分のやり方を人にもして欲しいって押し付けていること」

○真の知性とは心を広く持つことだって。

○「君は神を信じていない。神を知っているんだ。

信じるということは道の何かを受け容れることを意味するんだ。

君はすでに知っていたことをただ忘れていただけなんだよ。」

高次元の自意識

内面的知識

高周波振動

心の平和

悟り

○一人の魂が少しでも進化すれば、宇宙全体の仕組と動きに影響を与える

マリリン・ファーガソン

「アクエリアン革命」

ウィリアム・ブレイク

ホーソン

エミリー・ディギンソン

ガンジー

キング牧師

〇本当の解決のためには、我々一人ひとりが、自分の生活と人生を見つめなおす必要がある。

○本当の自分が何者であるのか? 人生の意味は何であるか?